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キング牧師の闘い、それはベトナム反戦運動と貧者の行進!

1965年8月11日、アメリカで投票権法が成立してわずか5日後、カリフォルニア州ロサンゼルスのワッツ地区で黒人暴動が起きます。

暴動は5日間続き、1600人の警官では手に負えず、14000人の州兵が投入されました。
全ブロックの建物が焼失し、死者34人、負傷者900人逮捕者4000人を出しました。
キング牧師は1週間後にワッツを訪れ、住民と話し合います。

そこにある極度の貧困、失業、住民を「猿」呼ばわりし虐待する白人警官、住民の不満、怒り、幻滅の声を聞きます。

キング牧師は過去10年間の公民権運動が南部中心であり、北部や西海岸の黒人ゲットーにとって何の影響もなかったということを思い知らされます。
経済的正義や貧困の問題にも取り組んでいかなくてはならないとキングは考えます。



同時にキング牧師が直面したのはベトナム戦争です。

当時アメリカは、フランスの植民地支配からの独立に立ち上がったベトナム民衆を、フランスに代わって押さえ込もうとしていました。
1965年からは北ベトナムに対する北爆を開始し、戦争は泥沼化します。

最初キング牧師は公民権運動への影響を考えて戦争に対する意見は控えていましたが、1967年以降反戦の立場を鮮明にします。

その理由は
第一に、軍事費の増額です。
そのために貧困対策の予算が削られたからです。

第二に、非暴力主義です。
海外での暴力に反対することなしに、黒人ゲットーの若者に非暴力を説くことはできません。

第三に、米兵戦死者で特に黒人貧困層の人たちが多いことです。
黒人の戦死者は10人に3,4人に上りました。

第四に、ベトナム民衆の犠牲者の拡大です。
それも米兵戦死者の比ではなく、北爆開始から66年末までに爆撃や戦闘に巻き込まれ死亡した民衆は50万人とも見られていました。
しかも、その7割は子どもなのです。

キング牧師は、この反戦の立場ゆえ「非国民」とみなされ非難の集中砲火にさらされます。

白人支配層、マスコミばかりでなく、黒人有力紙や黒人指導者からも批判されます。

なぜなら、黒人指導者層は、1920年代の「反共赤狩り」50年代の「「マッカーシズム」を生き抜く中で、反共政策を取ることで連邦政府の許容する範囲内で黒人の地位向上を進めてきたからです。
連邦政府を敵に回したくなかったのです。


キング牧師は、非難にひるむことなく反戦運動を続けると同時に、経済的正義の実現もめざします。

アメリカが伝統的に擁護してきたのは自由権、すなわち個人の所有権に基づき、個人が国家の干渉を最大限受けない権利です。
大恐慌以降、連邦レベルでの社会保障・福祉制度に道が開かれてきたことは事実ですが、その中心は年金などの社会保険であり、税金でまかなう公的扶助は限定的でした。
社会権の保障からはほど遠いです。
日本国憲法と違い、合衆国憲法には社会権の規定はありません。


そこを乗り越えていきたいキング牧師。
「世界一豊かなこの国になぜ4000万人もの貧者がいるのか。
今必要とされるのは、まともな生活、家、仕事、教育を得る権利(社会権)である。
アメリカの価値観を『財産や利益中心』から『人間中心』へと転換し、貧者に対する『政治的パワーと経済的パワーの根本的な再配分』の実現をめざさなければならない。」

 

キングは、公平な富の分配を求めて、「仕事か年間所得保障」を掲げる「貧者の行進」を計画します。
貧困に苦しむ人々の一団を首都ワシントンに連れて行き、保健教育福祉省の前でシット・イン活動を行うというものです。
市民的不服従運動を展開して、政府に圧力をかけ連邦政府による包括的な貧困対策を要求するというものでした。
キングは経済的格差を是正したかったのです。

しかし、この計画には無数の障害があり、なかなか実行へは進まなかったです。


そして、この計画がキングの手で実行されぬまま、彼は暗殺されてしまうのです……


参考文献 
「黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録」  
ジェームズ・M・バーダマン著  集英社新書


「マーティン・ルーサー・キングー非暴力の闘士」
黒崎真著   岩波新書


執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

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