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田山花袋「蒲団」1-4

  1-1で1人称のような3人称という視点、1-2では男女別に参加者の印象、1-3では作品からうかがえる、作家としての意欲や挑戦についてまとめてきました。今回1-4では、「1人称のような3人称」で語られている「時雄」の印象について、参加者の意見を中心に見ていきます。

<正直で冷静な時雄という「私」?>

 KYさんは、「中年男性の恋愛の悩みを書いているようでありながら、(時雄が)ころころ変わる」ことにも注目します。たとえば、時雄が「新しい女性を推奨するかと思えば、いきなり芳子の父親の味方になって自分は正しいことをしていなかったのかと猛反省したりもする」と言います。

 教師でもあるKYさんは、そこから師匠と弟子の関係について、「学生が男性か女性かにかかわらず、先生のおかげです、先生の授業面白いですなどと言われると、やっぱりちょっといい気になるというのはあると思う。それで時には、もっともらしく正論めいたことを言って、学生がすごいとか言ってくれたら、ちょっと得意になるというか、結局そういうようなやりとりが、もっと大きくなって、ああでもないこうでもないと思っていることが(『蒲団』では)すごい大問題みたいになっている」といいます。

 そして、「名だたる大作家の作品と、作品の中で逡巡する(時雄の)その悩みというのが対照的な感じがして、面白かったし、また保身に走ったり、性欲に走ったり(実際には走らないですけど)、身悶えしたりとか、それを実に正直に書いている。こういう人間の恥部というのはみんな持っていると思うし、そういうのをここまで正直に書くのはすごいと思う。そこに普遍性はあるという気がした」と、師弟関係における人間心理という面から、一定の評価をしています。

 この普遍性というのは、視点はやや異なりますが、Nさんのお話しでも出てきましたし、この作品の評価にかかわる1つのキーワードかもしれませんね。
 さらにそれに関連した話題として、『蒲団』のような私小説の、赤裸々に告白する手法の芸術性についてどう思うか聞いてみました。

 これについてAさんは、「ふだん小説を読む時は、ものすごく設定されたものを読む感じで、何のためにこれを書いたんだろうという意識で読むことが多いが、この小説にかぎっては、基本的に思ったことを書いているというか、普通の小説の持っている芸術性とは違う芸術性なのかなと思った」といいます。その上で、「ただ、かなり赤裸々ではあるが、それを文字にして、自分のいろんな感情、もちろん普通の恋愛感情と、(一方では、)『温情なる保護者』、その立場のふりをしている。そのふりをしている描写がとても上手で、ごまかそうとしていない。一定の冷静さがあったというところがあったと思うが、本当にそういう立場で、若干の冷静さがここにある状態で書いているのかなと思った」と話してくれました。

 なるほど。誤魔化していることを誤魔化さないといった感じでしょうか。誤魔化している自分を対象化するというか捉えるのは難しいことですからね。

<エロスが放つ人間のエネルギー>

 また、『蒲団』に共感するところが多かったというNさんは、「芸術の衝動というかモチベーションになるのはエロスだと思う」といい、「赤裸々さのもつ芸術性というのは、宗教家のようなきれいごとではなくて、人間を描くことにあると思う。そこにエネルギーというものは感じる」と評価しています。

 確かに、このころの自然主義小説には性欲はマストな問題で、そういう意味でもこの小説は時代の要請にかなっていたわけですけれど、日本では今も私小説の系列の作品が書き継がれているのは、Nさんのいわれる「エネルギー」に魅力を感じる読者が多いからかもしれませんね。

<まとめ>

 3人称で書かれていますが、1人称で赤裸々な告白をしているような語り方には、正直さと冷静さがある、そこが単純な1人称の「赤裸々な告白体」とは微妙に違う何かがありそうですね。それが3人称の効果かもしれません。

 その一方で、「エロス」「エネルギー」「人間」を感じさせる、熱いものもある、また1-2では男の寂しさというキーワードも出ていました。

 このように読んでみると、「蒲団」は単純な痴情小説ではなく、田山花袋が何を描こうとしたのか、再考してみる必要がありそうです。次回ではその辺を語り手の問題からさらに読み進めていきます。

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