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田山花袋「蒲団」1ー1

<今読んでも面白い「蒲団」の魅力>

 前回まで告白形式の小説のパロディーともいえる谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読みましたが、今度は日本の近現代文学に特有の告白形式の文学といわれる私小説、その私小説の元祖とされる『蒲団』をとりあげます。

 この小説は、文学史では定番の超有名作品なのですが、一般的には今ではほとんど読まれていないし、知られてもいないと思います。しかし作品自体は実際に読んでみると、今読んでも(いろんな意味で)面白い。古臭いことは古臭いが、古臭いなりの面白さがあります。この作品ならではの面白さと新しさをご紹介できればと思います。

 今回は3月27日開催の「もっ読」の記録として、参加者の印象や感想で、特に印象的だった意見を中心にまとめてみます。

<私小説の元祖なのに3人称?>

 リモートで韓国から参加のIさん(男性)は、『蒲団』を読むのは今回が3回目ということで、最初に読んだのは大学生だった20歳前後とのこと。その時は、文学史に載っているからという理由でなんとなく読んで、よくわからなかったが、今回読んでみて、共感できるところがいっぱいあって面白かったそうで、印象がずいぶん変わったようです。
 Iさんは、「今回、私小説の代表作みたいな感じで読んだが、しかし実際は三人称で書かれていて、語り手と「彼(or渠)」=時雄の距離感の面白さ、それ以外にも、「彼」だけでなく芳子の気持ちが書かれているとか、奥さんの気持ちもちょっと書かれているとか、そうした三人称ならでは」の部分に注目されたといいます。

 これはいきなり大事なポイントですね。確かに文学史では、『蒲団』は私小説の元祖と習うんですけど、実際に読んでみると、語り手は「私」、つまり一人称の語り手ではない。私も最初に読んだ時にびっくりして、印象に残った記憶があります。
 それとこれもIさんの言われた大事な点なのですが、この小説は確かに主人公の感情中心に書かれてはいるんですけど、三人称の語りだからこそ、他の人物の気持ちもちらほら書かれていて、自分の心境を告白するという、私小説の一般的なイメージとはちょっと違うという印象です。

 だから、私小説だという思い込みで読まないほうがいいし、そのほうが逆にこの作品のいろんな面が見えてくるかもしれませんね。

 Iさんはつづけて、三人称の語りという問題にからめて、視点の面白さにも着目しています。作品の終わり近く、芳子と父親を駅のホームに見送りに行く場面で、芳子の恋人である田中がホームに来ていることに、「芳子と父親は気づいているけど、時雄は気づかなくて、視点の死角みたいになっている。この死角が、時雄と芳子の関係性を考える上でも面白い仕組みになっている」と、とても興味深い指摘をしてくれました。

 これは『蒲団』の作品研究でもよく問題とされる場面で、確かにあの場面には、一箇所、時雄には、ぜんぜん見えていない視点というのが出てきて、田中が来ていることに、時雄だけが気がつかない。これは、自分のことを告白する私小説という意味では、自分のことを告白するのに自分の見えていないことを語るというのは不思議なことで、この小説が単に自分の告白を三人称で語っているというだけというわけではないことがわかります。非常に印象的な場面です。

<まとめ>

 ここまで、語り手について注目してまとめてみました。「蒲団」と言えば、「赤裸々に自分の欲を告白した小説」というイメージですが、語り手の視点だけを見ても、そう単純には言い切れないようです。1人称のような3人称という視点が、どのような効果を持つのか、次回では参加者の意見を踏まえながら、さらに明らかにしたいと思います。


 
 

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