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田山花袋「蒲団」1-2

 前回は、私小説の元祖と言われる「蒲団」が、1人称ではなく3人称で語られていることから、単純な告白小説ではなさそう、ということをまとめました。では、その効果は?という前に、今回は、性別による視点から参加者の意見を中心にまとめます。

<女性なら「蒲団」はキモイおじさんの話?>

 会場に来ていたKさん(女性)は、『蒲団』を読むのはこれが2回目とのこと。大学の時に授業で、近現代文学の作品を読んでレポートを書く課題があり、その時に読んで以来だそうです。
 Kさんは、主人公の時雄が弟子の芳子の夜着を自分で着てその匂いを嗅ぎ、彼女の蒲団に顔をうずめて泣くというラストシーンをとり上げ、「前に読んだ時と同じく、やっぱり最後が気持ち悪い」と第一声。「田山花袋がモデルだと書かれているので、どうしても写真を見てしまうし、作品の分析とは別に、どうしても最後が気持ち悪いと思ってしまう」といいます。確かに私小説というのは具体的なモデルがいるので、そういう生々しさがありますよね。
 その一方、大学院で日本の古典文学を研究していたKさんは芳子について、「大学院とかでは、やはり先生の存在はすごいので、恋愛感情とは少し違うけど、そういう憧れ慕う感情があるのはわかる」と理解を示しつつ、でもだからこそ、もし自分の指導教授がこんなことをしていたり、思っていたりしていたとしたら、「自分だったら、知りたくない」と芳子のモデルだった人の気持ちを思いやっていました。

 なるほど。確かに大学院では学部の時と比べて、指導教授との距離がぐっと近くなり、関係も密接になるので、時雄と芳子ほどではないにしても、ややそれに近い状態といえるかもしれませんね。

 現役の理科系の大学院生・Aさん(女性)は、リモートで久々の参加ですが、『蒲団』は初めて読んだそうで、「うけるという意味で、面白かった」と言います。
「私は学生なので、芳子さん視点だとどう見えるのかという感じ」で読んだというAさんは、「夜遅く帰宅してきて、そこに師匠が酔って泥だらけで待っていたらこわい」といい、また、「(時雄が)恋を勧めるチャンスが2回あったな、というところも、(そのチャンスというのは)ぜんぜんたいしたことじゃないし、勝手にそう思い込んでいるけど、完璧な勘違い。タイトルにもなっている蒲団が出てくるシーンがこれまたみっともなくて、蒲団を着たままトイレに行こうとして、酔っぱらって地面に座って、奥さんに汚がられているのに、そこで眠るでもなくじっと見つめている。もう笑いそうになって、面白かった」と、楽しそうに話してくれました。

 確かに笑えますよね。しかも本人は大真面目で、たぶん作者も笑わそうと思って書いていない。そこがまた面白いですね。

<男性ならあるあるで共感できる?>

 これまでは毎回会場に来られていたNさん(男性)は、今回初めてリモートで参加。『蒲団』を読んだのは初めてとのことですが、「テーマとしては、男性の永遠の普遍の心情を描いていてうまいなと思った」といいます。Nさんのいう「男性の永遠の普遍の心情」というのは、「(時雄の)恋愛感情が、ある程度年齢がいって、特に子供ができてからの男の寂しさ」をよく表しているとのこと。
 また、ラジオドラマを制作した経験をもつNさんは、時雄が癇癪を起して夕食の膳をひっくり返すシーンについては、「私はドラマとして見てしまう。ああいうシーンがあったほうが、ドラマチック」だといいます。
 そして、「普遍的、――結婚して落ち着いて、恋愛から遠ざかった男の心情というのは、時代を超えて不変だな。恋愛ができないということは、自分が年老いたというか、自分が年を取ったことを意識する一瞬」だといい、「あとはそれ(恋愛)を実行するかどうか、我慢するかどうか。それを実行したのを小説にしたのが(檀一雄の)『火宅の人』だろう。自分ができないからこそ憧れを持つ」と、実感をこめて熱く語ってくれました。

 なるほど。こうして意見をうかがっていると、Iさん(前回)とNさん、男性の読者は好意的に読まれているというか、男性目線で時雄の心情に共感するところも多いようですね。

<まとめ>
 

 今回は男女別に印象をまとめてみましたが、女性の視点だと時雄の「気持ち悪さ」「滑稽さ」などがどうしても目についてしまう、男性は結構、共感できるという違いが出ました。当然のような結果ではありますが、これが前回で述べた、語り手の視点とどうかかわってくるのか楽しみです。

 次回は作品から見える、田山花袋の作家像、当時の雰囲気などに触れていきます。



 


 

 

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