夏の前日

小学3年生のこと。今日みたく蒸し暑い、梅雨も終わりに近づいた頃だった。校庭の脇に咲いていた紫陽花も色褪せて、みんな梅雨明け宣言を待っていた。

その日は朝からずっと雨で、薄暗く分厚い雲が空いっぱいに広がっていた。こんな日は誰も外で遊べない。休み時間になると女子たちはオルガンを弾いたり絵を描いたり、元気を持て余した男子は廊下で遊び、先生に怒られている。どちらにも入れない自分は、教室の窓から雨の降る校庭を眺めていた。湿気でべた付く机に頬杖をつく。気の合う連れ合いの居ない学校生活というのは退屈だったけれど、それも嫌ではなかった。当時はそこまで深く考えていなかったし、そういうものだと思っていたから。

ぼんやりしたまま授業をやり過ごし、帰りの会が終わった。日直当番だった僕は、ガヤガヤと帰る人たちを見届けて学級日誌を書き、職員室へ届けた。さて帰ろうとランドセルを背負って昇降口に向かうと、下駄箱の前に同じクラスの男の子が立っていた。春から転校してきた子で、まだ僕はほとんど話をしたことがない。彼は明るく利発で、クラスにもすぐに打ち解けていた。でもどこか大人びていて、いつもひとりでも平気そうな顔をしている。

人のいない昇降口に、篠突く雨の音だけが響いていた。外をじっと見る彼に、僕は「どうしたの」と声をかけた。彼はすこしびっくりしたような顔で振り返り「傘がなくて雨宿りしてるんだけど、全然止まないね」といった。そして「走って帰ろうと思ってたとこ」と続ける。僕が「朝から雨だったのに傘持ってこなかったの?」と聞くと彼は「Nちゃんの傘が破けちゃって、貸してあげたんだ。僕はロッカーに置きっぱなしにしてる折りたたみ傘があるから大丈夫だよって。でも勘違いだったみたいで傘がなくてさ」と笑った。

やさしい人だなと思った。人に傘を差し出せるやさしさ。自分の置き傘を確認してから判断しても良かったろうに。あるいは、置き傘があると思っていたことすら嘘なのかな。僕は思わず「一緒に帰る?」と傘を差し出した。幼い頃とはいえ、我ながら柄でもないことをしたなと思う。

帰り道、僕たちは色んな話をした。一本の傘に二人で入りながら、転校のこと、好きなゲームのこと、習い事のこと、友達のこと。今までほとんど会話をしたことがなかったのに、話してみると妙に気が合った。でもどれもあんまり内容は覚えていない。覚えてるのはなんだかふわふわした気持ちと、よく笑ったということ。そして彼の「ずっとモトナリくんと話したいと思っていた」という言葉。

家に着く頃には雨が止んでいて、二人とも片方の肩だけびしょ濡れで、それすら面白くて腹を抱えて笑った。翌日から僕たちはよく話すようになり、次第に学校ではいつも一緒にいるようになった。僕は学校に行くのがすこし楽しくなった。

今、彼がどうしてるのかはわからない。どこに住んでいるのかも、結婚しているのかも。もう20年以上も会ってないし、連絡先も知らない。共通の知り合いもいない。
こうして今、僕が一人で酒を片手に思い出しているなんて夢にも思わないだろう。知ったら気持ち悪いやつだなと笑うだろうか。でも、それでも構わない。あの時間もこの思い出も、彼がくれたことに間違いはないのだ。

そんな思い出を肴に、今日は千葉県の「甲子 純米吟醸 はなやか 匠の香」で一杯。名前の通り、鼻に抜けていくフルーティで華やかな香り。微かな酸とフレッシュさはこの時期に合う。飲んだ後に甘さが残るのも良い。

もうじき、梅雨が明ける。


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