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この世に誕生した瞬間から当たり前のように手にしているこの権利は、ただのラッキーでしかないことを忘れてはいけない。

この冬アメリカ滞在中にNetflix (ネットフリックス) でアメリカンサン(American Son)を観た。そして義理母と黒人と白人の差別について永遠にかたり尽くした。そして、何度もこの言葉を言われた。「私も貴方も産まれた瞬間からPRIVILEGE(特権・権利)を持って産まれてきた、今の世界においてただの幸運だっただけ。」と。

まず、大前提に多くの日本人には先祖か奴隷を連れて来たという加害者意識も、先祖が奴隷として連れてこられたという被害者意識もない。またそれによる差別を意識したこともない。何世代にもわたって米国で生きてきた黒人と白人の感覚は体験しにくい。純血が好きな鎖国の日本で育った私たち日本人には理解しようとしても理解できない感覚なのである。

今や多くの日本人にも親しみがあるJay.Z、ビヨンセ、オバマ前大統領、ミシェル・オバマ、リアーナ、カニエ・ウェスト、キム・カーダシアン、ヤラ・シャヒディ、シンシア・エリーヴォ、ジョン・レジェンド・・・。黒人で活躍している人の名を挙げることは容易なはずだ。でもそれは、全体数と比較すると信じられない程の少数な例なのである。ビヨンセもABCのインタビューで、「アメリカの黒人女性はいまだに白人女性以上に努力しないと成功できない。」と語っている。

この作品は、先入観と、些細な誤認と、偶然が連続的に重なって不幸が生まれるという、人生の現実の一側面を取り扱った素晴らしい作品だと私個人として思う。しかし、作品の前提となっている人種差別について考察するのは日本人では難しい。そもそもこの作品の本質は、そことは別のところにある。その点に注目して観て欲しい。

この映画の登場人物はたった4人。会話のみで終始編成されている。失踪事件の内容、解決が焦点ではなく黒人として様々な差別を受け、ある種黒人としての誇りを黒人である息子にも受け継いで欲しい妻と白人であり、黒人の息子をエリートとして育てるが、黒人に対し偏見を持つ父の葛藤だ。警察を交えて双方の価値観、考え方をぶつけ合い、見ているこっちもどっちが正しいのか、どっちに共感できるかを模索しながら観賞する。個人の考え方はそれぞれだが、正解などあるはずはなく、自分なりの価値観を見つけるしかない。そういった事を考えるきっかけをくれる作品ではある。人種差別を題材にした映画は山程あるが、会話劇で組み立てるという構図は斬新。

大窓がある天井の高い広々とした部屋に、ジーンズとTシャツ姿の黒人女性が落ち着かない様子でいる。そこはフロリダの警察署のロビー。どこかの高級住宅の一室と最初に思ったのが間違いだとすぐに気づく。彼女は博士号を持つ大学の心理学教授で、いわゆるエリートだ。女性博士ケンドラがいても立ってもいられないほど不安なのは、18になる息子ジャマルが夜遅くなっても帰って来ないからだ。それで息子の行方を知るために警察に来ている。ジャマルは陸軍士官学校への入学を控えている優秀な青年で、連絡せずに帰りが遅くなるようなことはこれまでなかった。しかも携帯は通じない。そして彼女はあることを思い出し、不安に苛まれている。ケンドラと白人のFBI連邦捜査官の夫は、彼の浮気が原因で数週間前から別居していた。その所為でジャマルは、父親への怒りから車に「Shoot Cops!(警官を撃て!)」と書かれた大きなシールを車に張っていた。そのことをケンドラは思い出していたのだ。息子の肌が黒く、がっしりとした体格であることで、彼女の不安は増長。そんな焦燥する彼女の前に、夜間勤務の白人警官が現れる。「息子さんは街の仲間からはどう呼ばれていましたか?逮捕歴を教えて頂けますか?」と聞かれた彼女は怒り出す。そのような質問は、警察の決まった手順なのだが、彼女は自分が黒人だから差別されたと感じたのだ。彼女は全ての出来事の裏には黒人への差別が隠れていると信じていた。それで声を荒らげて、白人警官に抗議を始めたのである。そうこうしているうちに別居している夫が駆けつける。時計の針は既に夜中の3時を回っていた。はじめは緊張しながら状況を確認し合っていたケンドラ夫妻だったが、やがてそれまでも何回も繰り返されたのだろうと思われる人種差別について、言い争いになってしまう。彼らの別居 には、愛情の枯渇ではなく、二人の人種差別に対する姿勢の違いが背景にあった。そこへ漸く担当警部補が現れる。ケンドラは驚いた。なぜなら、彼が黒人だったのだ。黒人である自分を長い間平気で待たせるのだから、白人に違いないと思っていたからである。

私たちは目や耳を通して初めに入ってきた情報を大切にする。しかしそれが真実とは限らない。第一印象と現実の差は、日常的にどこにも存在する。しかしそんな誤った想像や推定が重なると、稀に重大な事故に繋がる事がある。この作品は、そんな人生における社会の真実をテーマにしている。

最近アメリカでは、 作家マークトウェインの小説や、そこに登場するトムソーヤに触れることが少なくなった。それは小説中で大人の黒人のことを、大人であっても子供であってもボーイ(Boy)と呼びかける箇所が出てくるからだ。当時の南部ではそのように呼ぶのが当たり前だったのだが、現在ではそれを差別用語として排除するのが、社会習慣となっている。その所為で、昔はアメリカが誇る名作とされていたトムソーヤの冒険は、学校の教材にはならないし、図書館にも陳列されていない。このようにアメリカ人は、人種差別を無くすためにあらゆる努力をしてきている。しかし現実として人種差別は止まない。そこにある本質的な人間の性(さが)を見つめ直す時機がきているのだ。

人にはある二つの能力が備わっている。ひとつは対象をグループ化することで素早く状況を把握する能力。ふたつ目は、自分にとって安全な仲間を瞬時に見つけ出す能力。前者は沢山の物事を認識しようとする時、それらを似ているグループにカテゴリー化する性質ともいえる。

人は、雑然とした物事のなかに統一されたルールを見つけ出し、分類化し記憶し行動する。その対象は人でも同様で、グループ化することで、一人ひとりの次の反応やグループとしての反応を素早く予測する。もし過去に、同じようなグループがあったことを思い出せれば、より正確にその次に何が起こるかが予測できる。たとえば目の前で風船が膨らみ始めれば、やがて破裂することを経験から推測する。目をつぶって耳を手で覆うか、逃げるか、排除する。これは危険から身を守る素晴らしい能力で、 グループ化の結果から次に起こる事態を想定するのは本能だろう。

一方後者の能力は、私たちが赤の他人に始めて会った時、その人が家族や親友と似ていれば、親しみをより強く感じる、という感覚に通じる。心理学の実験に次のようなものがあった。まず大人数の試験対象者に、一言もしゃべらずにグループを作るように指示する。やがてグループができた後、グループ毎に各人の生きてきた環境や経験を調べると、似ている状況や体験を積んできた者同士が、グループを組むという傾向が判明する。彼らは会話をしていない。つまり、そのような傾向は本能的に備わっているのだ。日常生活でも、父親が嫌いだと言いながら、その父とそっくりな男と恋に落ちる女性や、母親を避けていた男性が母親に似ている妻を選ぶケースなど、よくある話。 同じように白人は白人と一緒に行動したいと思い、黒人は黒人と一緒に行動したいと思うのは、何ら不思議なことではない。だがそのような本能的な行動の先に、自分達グループと違う者を排除しようとする感情は生まれて来る様に思う。

もしあなたが街を巡邏している警官だったらどうするだろう。もし「Shoot Cops!(警官を撃て)」というシールがバンパーに張られた車を見かけたら、あなたは車の運転者が自分たち警官に対して挑戦的なタイプと推測するだろう。そして中にジャマルと一緒に乗っていた黒人が、麻薬保持の犯罪歴を持っていたら、あなたの警戒度は更に高まるだろう。街を巡邏している警官のあなたは、常日頃から見聞しているのは悪事を働く連中。車を降りてきた3人の大柄の若い黒人に対し、恐怖を感じたとしてもおかしくない。そしてその夜は大雨だった。ジャマルは警官に指示されて車から降りて警官に近づいていく途中で、滑ってその大きい体ごと前のめりになる。驚いた警官は襲われると瞬間的に思い弾を引いた。

もし後ろ窓に「Shoot Cops!」と書かれたシールが張られていなければ。もし彼が黒人ではなく白人だったら。もし彼が大男ではなくチビで痩せていたら。 もし・・・・・。どれかの「もし」がひとつでもあれば警官のあなたは、銃に手をかけることはなかったかも知れない。が、ケンドラ息子ジャマルの場合、一つの「もし」も当てはまらなかった。

この作品は一方的に人種差別を批判しているわけではない。特定の考え方を押しつけようとはせずに、日常にあり得る問題を提起して、別の側面から人種問題を考える機会を与えてくれる。だから観る前から、やっかいな人種差別問題の話なんだと身構える必要はない。身構えて滅入るのではなく、「何故?」と思考を廻らせたり、その「何故?」と感じる時間を大切にしよう。
この作品は出演者が4人だけだ。セットやデザインの取り替えも衣装替えもなく、テーマは暗くて淡々としている。けれども飽きない。それはストーリーが優れているからだけではない。日常に潜み、十分起こりうる悲劇をテーマとしているからだろう。普段見聞きするニュースの裏側に隠れている事実を、実感として共有できるからだ。そんな疑似体験をするだけでも価値がある。 

そして、私自身ハーフの息子を持つ親としてとても考えさせられる作品だった。終始涙が止まらなかったが、こんなに涙を流しても米国で育っていない私には、この人種差別を心の底から体感することは永遠にできないと思う。

周りには国際結婚し、ハーフの子供を出産した友達が多く存在する。正直、日本で生活していくには、ある程度環境さえ整えればハーフということで、差別を受けることはほぼないといっても過言ではない。ただ、主人や妻の祖国に家族で移住することになったら、どうだろうか。そこで差別は間違えなく存在する。だからこそ、私にはないその感性も小さい頃から触れて磨き、自分の考えをきちんと持って欲しい。なので、今は可能な限り多くの人種と交わることのできる環境を提供することに夫婦で努めている。

誰かを愛し、子を授かることは素晴らしく、美しいことだ。人種差別は、子供にもその親にも罪はない。しかし、産まれた瞬間から、肌の色ただそれだけで、ある子は特権を持ち、ある子は持たない状態であるのは事実である。誰が悪いという訳もなく。ただ、産まれた瞬間の肌の色だけで、彼らが人生の中で、人種差別を受ける宿命にあることは今も尚続いている現実なのである。

読んでくれてありがとうございます! 頑張っているチームのみんなに夜食をご馳走しようと思います。