谷崎潤一郎の「刺青」により、その理想の嗜好を探る。
表現により、実体を体験したかの錯覚を起こす事がある。それは、その作家の技量というよりも作品における自己の内面との一致によるものである気がする。
想像しやすい、そして理解したいというような、こちらが迎え入れて作品を感じる時は、全てが合わさりとても幸福感が充足する。良い時間だったと感じるからだ。
私は、谷崎潤一郎にその救いを求めた。私が知る限り、読書をしながら女性の美を知れるのは、私の記憶において、谷崎潤一郎がその愛なのだ。
私は、当たり前に谷崎潤一郎の「刺青」を開いた。
彫り師である主人公が、己の魂を刺り込むために理想の女性を5年かけて探し、必然に巡り合う。
そこに刺青を彫る。追い求めているのは、描く女性の理想像の、本当の内面にある、悪女性を伴う美しさや妖艶さだ。
これを自分の手で彫る事で、開花させたいと願う。
この、自分の手という事が何より、彫り師の矜持とサディストの部分を色濃く残す。
彫り師は、見つけた娘に女郎蜘蛛を彫り上げる。
娘も自分に潜むその内面を認め、開花させ女に変化する。
娘から女に描写も変化する。
彫り終わり、激痛に耐え、色仕上げの湯に入り、自分を解放させ変化したことを伝える。
お前さんは真先に私の肥料になったんだねえと。
男性は、やり遂げて達成した事からその役目を終えた事を知る。その充足感からサディストの面がなくなり、それすらも女に引き継いだように感じる。
これだこれ。自分の中にある理想めいた欲求を叶えてくれる女に出会った時に、その全てを伝えたいと気持ちを作品に残す。本当に求めているのは、その女の軀でもなく、美貌でもなく、精神的な受け渡しだ。
自分は、今までの自分であることを捨ててまで、その精神的依存部分を刺青として託し、極限の充足感を得た。
この初期作品の頃から、谷崎潤一郎の女性への拘りが読み取れる。男性が女性をプロデュースして、悪女性を高めてその美しさを立たせる。
これを読みながら、私はなぜだか小さい頃、学校から帰ると母親が、お昼のワイドショーで有名スタイリストが道行く女子を変身させて、輝かせる番組を視ていたのを思い出した。
私も、それを視ながら女性はこんなに美しくなるのかと。テレビの前で拍手を送っていたのを思い出した。
もし、この時に変身した女性ではなく、女性そのものを高めたそのプロデュース力に興味が湧いていたら今頃は、もっと女性に囲まれているような気がした。
だが、私みたいにその表面を純粋に、キレイだなぁと思って、ただただ無垢に拍手を送っている少年がいて、そこに女性への理想を膨らませることで、さらに高みへいき、開花した後の女性を喜ばせるためだけにその青春を費やし、女郎蜘蛛の傍でただ待機し、エサになっても構わないという雄蜘蛛達のその奉仕精神を持つ私達のおかげで女性は、その輝きを失わないでいられるのかも知れないと感じた。
そう考えると私は、その開花の過程をプロデュースする側でなくて良かった気がしないワケでもない。
しかし、本当に凄いのはサディストの彫り師でもなく、内面に妖艶さを秘めた娘でもなく、道行く変身願望がある女子でもなく、それをプロデュースしたスタイリストでもない。
サディストの彫り師が自分の仕事を終え、解放されたように、そして、内面の妖艶さを開花させ娘から女への変化を描いた、当時の老若男女にその刺激を与え、それを書くことで体感させた谷崎潤一郎こそが、やはり時代を超えて凄いのである。好きなのである。
この女が後の作品にも共通するような描き方を感じるのもやはり、谷崎潤一郎はぶれてない。何より、5年かけて見つけ出した記憶の切っ掛けがその女の足だなんて。足から全てを悟るとは素敵過ぎる。
ああ、私も性的嗜好を文学として表現してみたいが、とても恐ろしい。私が書くとただのキモいおじさんになりかねない。
なんのはなしですか
フェチを文学に求めるのは、とてもハードルが高いが、これはもしかして、それを受け入れてくれる人をもし、この先見つけたのなら、それは一つの無敵の形を、意味するのではなかろうか。
書いてみたい。それを読ませずとも。披露せずとも。
私は、私の「刺青」を彫る人を見つけたくなった。
これを、谷崎潤一郎が起こす、文学中年が陥りやすい典型的な、表現により、実体を体験したかの錯覚を起こす事がある危険な状態といいます。
ぜひ、春の夜のお供に
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。