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認知症の母親とのベトナム暮らしを綴ったエッセイを読み、ベトナムの風景と母に想いを馳せる

『ベトナムの風に吹かれて』(角川文庫)は、日本語教師の小松みゆきさんが故郷新潟から認知症の母親を呼び寄せ、ベトナムのハノイで共に暮らす日常を綴ったエッセイである。

小松さんは1992年、40代半ばにしてベトナムに移住した。ほんの1〜2年のつもりがずるずると滞在が延び、9年目を迎えたとき、父親が亡くなった。81歳の母親が安心して身を寄せられる先が見つけられず、親戚に大反対されながらも、ハノイで同居生活を始めることにした。

本書は2007年に自費出版した『越後のBaちゃんベトナムに行くーラストライフを私と』を加筆・修正のうえ、2015年に改題して文庫化されたもの。同年、松坂慶子主演で映画化(同題)もされている。

小松さんの母親は予想以上にすんなりとベトナム生活に馴染む。

近所の市場に朝食を取りに行くと、パインクォン(刻み葱や豚肉ミンチが入った米粉のクレープのようなもの)を「んまい、んまい」といいながらたいらげ、タレまで飲む。

知り合いの文化人類学者に同行し、地方の少数民族ターイ族の村を訪ねたときは、村のおばあさんのピアスに興味津々で、言葉も通じないのにお互いに触れ、言葉を掛け、笑いあう。

カンボジアのアンコールワットに旅をすれば、現地で出会った70代のおばあさんグループに高齢を驚かれ、「長生きにあやかりたい」とつぎからつぎに記念写真を頼まれる。

もちろん、楽しく微笑ましいことばかりではなく、トラブルも多々起こる。ひとりで母親がふらりと散歩に出たまま戻らずに大騒ぎになったり、旧正月の連休前に骨折をして一時的に寝たきりになり小松さんが寝ずに看病をしたり。

そんな母親との日々のなかで、小松さんは未知の病だった認知症への理解を深め、同時に母親のこれまでの人生を再発見していく。

21歳年上で6人の子を持つ父のもとに、小松さんの母親は後妻として入った。その直後に先妻の長男が結婚し、歳の変わらぬ長男の妻の姑となり、大家族での生活が始まった。しがらみの多い家から離れるべく、一人娘である小松さんが15歳で上京した際、自分も東京へ移ろうと計画したこともあったが、父に連れ戻された。

自分とふたりきりの生活でのびのび過ごす姿をみて、ようやく母は家から解放されたのだと感じ、自分が母を幸せにしなくてはと小松さんは決意を新たにする。

尋常小学校しか出ていないが、意外にも熱心に本を読む。夢中で読んでいた『日本の歴史』を小松さんがのぞくと、ところどころページに紙切れが挟んであった。製糸女工たちの楽しみ、若い兵士たちの死に方、身売りされた村の娘の行き先や、軍人たちが戦争を始めた理由など。母親も若い頃製糸工場に働きに出ていたし、戦争を経験している。自分の生きてきた時代に興味があることを、小松さんは知る。

ある日は真剣な顔をして、「すぐそこにあるお寺にどうしても行きたい」という。小松さんが理由を聞くと、「戦死した兄の名前が書かれた御札が風に吹かれて落ちていたので、拾いに行かねばならない」という答えが返ってきた。近所にお寺はないし、母親の長兄が戦死したのはフィリピン。母親の思い込みなのだが、小松さんは黙って付き合う。6人兄弟の長女である母親は、兄と弟を戦争で失くしている。

またあるときは、機嫌よく越後のお酒を飲んでいると思ったら、「オマエは手のかからん、いい子だったのお。」「最初の子は死なせてしまった。忙しくてかまっていらねんえかったんど(面倒みられなかった)……。」「オマエはよく死なんかったのお。よく育ったと思うよ。」と急に目をうるませる。小松さんがはじめて聞く話だった。

認知症であっても母親には好奇心があるし、亡くなった兄弟や最初の子(小松さんの兄)のことも覚えている。

小松さんの文章を通して、小松さんと同様に、読者のわたしたちにも、80歳を超える小松さんの母親がどんな時代を生きてきたのか、徐々に伝わってくる。「今日はいい天気だのお」「ここは雪が降らんでいいのう」と朗らかに笑う笑顔の奥で、どれだけのことを黙って背負ってきていたんだろう、と目頭が熱くなってしまう。

この本を読みながら、自分の母のことを何度も想った。もちろん、母と小松さんのお母さんでは生きた時代がちがうし、年齢もずっと若い。ただ、わたしは母の「母親」としての顔をしか見てこなかったし、母がどんな時代を生き、どんな想いを抱えてきたのか、全然知らないなと思った。

コロナ禍以前は通訳ガイドの仕事で家を空けるたび、母が泊まり込みで家のことを見てくれていた。ツアーを終えて帰ってきても、1〜2日はいてくれたので、一緒に時間を過ごす機会も多かった。いまは日韓を気軽に行き来することもむずかしく、もう1年近く会えていない。この本を読み、ますます母が恋しくなってしまった。今度会えるときには、母が「母」になる前の話を聴いてみたい。

小松さんとお母さんの同居生活は、その後13年間つづいたそう。小松さんは現在もハノイにお住まいで、昨年、ライフワークであるベトナム残留日本兵家族についての著書を出版されたそうだ。

いまは訪れることがむずかしいベトナムやカンボジアの風景に出会え、小松さんとお母さんが共に過ごす時間に胸が熱くさせられ、母への想いも想起させられる。とてもよい読書体験だった。







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