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「自分は普通」本当にそれでいいの?

日本人は特に
"「普通」であること"
を大切に考える傾向がある

自分の内部に
普通である要素を
見つけて肯定し

自分が周りと比べて
「はみ出し者ではない」と

無意識のうちに思いたい欲求が
あるのではないだろうか?

では、なぜそのように「普通であること」
にそこまでこだわるのだろうか?

それは、普通であることが
その他大勢に属するという

「味方の多い自分」
という安心感を

求めたがっている心理が
影響していると考える

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「普通であること」は自分の存在を
その他大勢と同化する事であり

違いを遠ざけて、同属である安心感と
信頼感を得ようとする行為といえよう

同属であることは
大多数に属する事であるが

生存戦略の上では
自分の生存確率を高める
という点においては
有利な面がある。

生き残っている他者と
同調することで

自分も生き残れる要素を
取り入れることが出来て

危険を回避できる可能性が
高まるからだ。

しかし、自分自身の持つ
他とは違っている部分を
隠してまで

「普通」というもの求めるのは

雲をつかむ様な
形のない概念に
支配され続けることを意味する

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自分の価値判断が
普通かどうかで
捉える無意識の刷り込みが
起こる為である

そして、奇妙なことに
完全に「普通な人」
という存在は
この世にはいない


求める普通像
というものを
一人ひとり
細かく聴いて尋ねたら

特定の誰かの姿がぱっと
浮かび上がってくるだろうか?

「THE・普通」と言われる
人物が存在しただろうか?

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普通の要素を
多く持っている人はいる
しかし「普通要素100%の人」は
今のところ科学的にも
発見されていないようである

なぜなら、時代は変化するし
人は変わりゆく環境にも
柔軟に適応できる生き物だからだ

普通という状態のままで
あり続けることができないのは

成長したり、変化したり
退化したり、老いたり

刻一刻と日々、
変化を経て
生活をしているからである。

普通という幻想を
追いかけ続けると

自分の特徴や
武器になり得た要素を
切り捨ててしまう
危険性もあるだろう。

社会で生きていく上では
普通という概念を
常識の範囲内で

ある程度、自分の中に
取り入れておくことは
大切である

しかし、普通という考え方を
持たないとおかしいとか

普通じゃないから
異端だというように

普通以外を排除しようとする思考は
集団で少数を迫害する構図が
生み出されやすく
危険思想化する恐れがあるのだ。

普通を追い求める
無意識の行動は

そうした時に安心を与え
安全性を高める効果があるものの
行き過ぎると

他者を攻撃したり
差別や迫害を生み出してしまう

普通でいる事は、いい面だけではなく
負の側面もあることを理解した上で

他者との相互理解や
自己理解に活かしていくと
日本人特有の繋がりの強さに
転換していけるのではないか

「普通」に対する
個々人の捉え方にしても

理解とそれを扱う人の知性が
必要であると言えるだろう

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