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運んだモノに責任を果たす「運び屋」

自民党総裁選にも出馬している河野太郎は、以前自らをワクチンの「運び屋」であると自称し、「運び屋として頑張ります」と公言した。これはクリント・イーストウッド主演・監督の映画「運び屋」に自らをなぞらえたのだと思われる。

ところがワクチンによる健康被害が隠しきれないほど広がってくると今度は一転して「自分は運び屋にすぎない」と一切の責任を放棄した。自分が不都合になった途端、「運び屋」の意味合いをすっかり変えてしまったわけだが、そもそも河野が自らをなぞらえた(と思われる)クリント・イーストウッドの「運び屋」とはいかなるものだったか。

イーストウッド演じる90歳のアールは家庭不和で仕事もうまくいかず、家も差し押さえられ金に困っていたところ、ある人物から「車を走らせるだけで簡単に大金が手に入る仕事」を持ちかけられる。実はそれはメキシコに麻薬を運ぶ仕事で、アールは最初は気づかなかったものの何度か仕事を引き受けるうちに運んでいるのが麻薬であると気づくのだが、大金が入ることからアールはもう「運び屋」をやめられなくなってしまう。ところが仕事の最中アールの妻が病に倒れ、アールは「どんなに大金が手に入っても失った家族との時間は取り戻せない」と自らを悔い、「運び屋」からも足を洗い警察に逮捕される。

アールはその後の裁判で、弁護士が自らを弁護しようとそれを制してまで逆に自らの有罪を主張し、自ら進んで刑を受けようと法廷で発言する。河野太郎が自らをなぞらえた「運び屋」は、全ての罪を認め、責任を果たすため自ら進んで罰を受けようとすらしたわけだが、河野の振る舞いにそれに見合う潔さが果たしてあっただろうか。

イーストウッドの「運び屋」は最後に「一番大切なのは家族」と気づくことになるが、河野の振る舞いから「一番大切なのは国民」と一体誰が感じ得るだろうか。河野はひょっとして「運び屋」をちゃんと観てないのかもしれないが、もう二度とイーストウッドに自らをなぞらえ「運び屋」などとは言ってほしくない。

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