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徒然和菓子譚

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【徒然和菓子譚】その22

【徒然和菓子譚】その22

今回は墨型落雁のお話です。これにて一旦、徒然和菓子譚はおしまいとさせていただきます。

墨型落雁は長方形の墨を象った落雁で、金沢だけに限られた品ではありませんが、その発祥から発展に至る過程や文化的価値の高さ、更に藩主前田家のこだわりが結実して名菓「長生殿」を生んだ歴史などから考えても、加賀・金沢の菓子文化の一翼を担う存在と言えます。落雁と言えば、木の型に砂糖や米粉などを詰めて固めたものでありますが

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【徒然和菓子譚】その21

【徒然和菓子譚】その21

今回も引き続き加賀・金沢のお菓子のお話です。金花糖と氷室饅頭についてお伝えしたいと思います。

金花糖
立体的に彫られた二枚の合わせ型に熱した砂糖を流し込んで成形し、色とりどりに着色して仕上げる飾り菓子です。主にひな祭りを中心に用いられましたが、単なる女の子の節句という以上の重要な祭行事であったようです。十三代藩主前田斎泰(なりやす)公の時代には金花糖が最も盛んに作られ、文化文政年間に藩主の命によ

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【徒然和菓子譚】その20

【徒然和菓子譚】その20

今回も引き続き、加賀・金沢独特の菓子についてのお話です。寿せんべいと福梅についてお伝えさせて頂きます。

寿せんべい
起源は藩政時代初期にまで遡るとの説もあります。紅白の丸いスリ種(米粉の薄焼き種)の中央に「寿」の文字がいわゆる「引き蜜」の技法で刷り込まれています。紅白一対に生砂糖製の緑の松葉を添えて供します。言うまでもなく婚礼のお菓子です。かつては他の地方にもあったと言われていますが、現在これだ

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【徒然和菓子譚】その19

【徒然和菓子譚】その19

今回からは加賀・金沢に伝わる独特な菓子についてお話していきます。まずは五色生菓子です。

菓子司の話でもお伝えさせていただいた、樫田吉蔵によって創案されたお菓子です。前述の通り、珠姫様御輿入れの際の祝い菓子として用いられました。重箱に詰めらて五色の生菓子はそれぞれ日・月・山・海・里を象徴し、天地自然の恵みすべてに感謝をささげ、安泰を祈るという壮大な意匠に込めた傑作のお菓子です。金沢では今でも婚礼の

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【徒然和菓子譚】その18

【徒然和菓子譚】その18

今日は菓子司の最後のお話です。森下屋八左衛門(もりしたやはちざえもん)についてお伝えしていきたいと思います。

三代藩主利常公の命により、城下の尾張町にて寛永2年(1625年)に創業し、以後、現在に至るまで396年間、御用菓子司を務め続けています。16世紀後半に金沢近辺の一向衆徒を治めていた亀田大隅(かめだおおすみ)の子孫であり、もともとは武家であったものが菓子司に転身した珍しい事例になります。当

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【徒然和菓子譚】その17

【徒然和菓子譚】その17

今日は前田家の菓子司、道後屋三郎右衛門に続き、樫田吉蔵(かしだきちぞう)、道願屋彦兵衛(どうがんやひこべえ)の二人のお話を少しだけしたいと思います。

樫田吉蔵は、二代藩主利長公の時に命を受けて菓子司となりました。三代利常公の正室として徳川家より二代将軍秀忠の二女珠姫様(後の天徳院)が御輿入れした際の婚礼祝いの菓子「五色生菓子」を考案したと言われています。五色生菓子に関してはまた別の機会にお話しし

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【徒然和菓子譚】その16

【徒然和菓子譚】その16

今日は「御用菓子司」のお話です。その中でも道後屋三郎右衛門(どうじりやさぶろうえもん)についてのお話です。

金沢における菓子司の草分けといわれる前田利家公が金沢へ入場したのは天正11年(1583年)ですが、この後加賀藩都としての金沢の街の建設が着手され、城下には武家や町人の住む街並みが計画的に造成されていきました。能登は宇出津の出である道後屋三郎右衛門は藩より菓子司を命ぜられ城下の片町に住みつき

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【徒然和菓子譚】その15

【徒然和菓子譚】その15

今回からは加賀・金沢の菓子に関してです。まずは藩主前田家の存在に関してお話ししていきましょう。

加賀・金沢の菓子を語る上で、藩主前田家の存在を抜きには語ることはできません。むしろ加賀・金沢の歴史は前田家によって生み出され、育まれ、守り伝えられたと言っても過言ではありません。それは前田家が二百数十年にもわたるその治世を通じて、一貫してとり続けた文化振興政策を基盤として生み出されたことは、他の諸文化

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【徒然和菓子譚】その14

【徒然和菓子譚】その14

今日は友白髪のお話です。

夫婦そろって白髪になるほどの長寿を祈っての婚礼の縁起物です。あるいは実際に長寿となった夫婦の祝い菓子にも使われます。白と赤の糸状の餡を乗せた餅、または求肥を対で並べるため、そのまま長寿の夫婦を連想させますが、実は「友白髪」とは白の方だけで紅は猩々(しょうじょう)をあらわすという説もあります。猩々とは中国に古くから伝わる伝説上の獣の名で、体は紅色の長い毛で覆われ、顔は人、

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【徒然和菓子譚】その13

【徒然和菓子譚】その13

今日は蓬莱饅頭の話です。

蓬ヶ島と同じく伝説の蓬莱山をかたどった饅頭ですが、大饅頭の中に幾つもの色とりどりの子饅頭が仕込んであり、構造上の工夫により、どの方向に切っても切り口には必ずいくつかの子饅頭が現れるようになっています。つまり、子宝に恵まれることまちがいなし、という縁起を担いだものであり、当然に婚礼の祝菓として今も珍重されています。伝説の蓬莱山に似せるため、大饅頭の上に緑の松の「刷り込み」

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【徒然和菓子譚】その12

【徒然和菓子譚】その12

今日は不老門のお話です。

起源や色合いはその11でお話しした蓬ヶ島と同じですが、こちらは巻き物にして蒸しあげた後、輪切りにして見た目も美しく仕上げます。「不老門」の名は古くは中国の洛陽の城門の一つとされるが、菓子の名になった経緯は定かではありません。一説には平安時代に編まれた「和漢朗詠集」に収められた慶滋保胤(よししげのやすたね)の対句「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅」からの命名と言われています

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【徒然和菓子譚】その11

【徒然和菓子譚】その11

今日は蓬ヶ島のお話です。

これは古くから中国の神仙思想にある蓬莱山(ほうらいさん)のことです。即ち、中国の当方の海に浮かぶとされる伝説の島で松、竹、梅が生い茂り、鶴、亀が遊ぶ不老不死の楽園と言われています。この伝説は平安時代にに日本にも伝えられ、蓬莱飾りなどの祝儀の形を生んだとされています。同じ思想が菓子にも取り入れられ祝事、特に婚礼、出産、長寿等の祝菓として珍重されるようになりました。

作り

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【徒然和菓子譚】その10

【徒然和菓子譚】その10

今日は粽のお話です。

粽は五月五日端午の節句にはつきもののお菓子です。男の子の成長を願い、やはり厄除けの意味を持ちます。日本での起源は奈良時代と言われていますが、さらに元を辿ればやはり紀元前の中国まで遡ります。紀元前3世紀頃、楚の詩人、屈原(くつげん)は為政者「壊王(かいおう)」の乱行を諌めようと忠言をなしましたが、聞き入れられずに失意のうちに泪羅(べきら・中国の川)の淵に自死してしまいます。人

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【徒然和菓子譚】その9

【徒然和菓子譚】その9

今日は節句のお菓子(菱餅)のお話です。

前回のお話で三月三日の女の子の節句には菱餅を飾りますが、江戸後期には緑白緑の三段重ねが一般的で特に緑は古くより薬効があるとされ、邪気や災いを払う力があるとされた草(よもぎ)が使われました。見た目にも愛らしい紅が入るのは明治以降と言われています。古くは三月三日に限らず、五月五日や九月九日などの節句にも草餅を食べる習わしがあり、これらはすべての節目の日に厄除け

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