見出し画像

【徒然和菓子譚】その15

今回からは加賀・金沢の菓子に関してです。まずは藩主前田家の存在に関してお話ししていきましょう。

加賀・金沢の菓子を語る上で、藩主前田家の存在を抜きには語ることはできません。むしろ加賀・金沢の歴史は前田家によって生み出され、育まれ、守り伝えられたと言っても過言ではありません。それは前田家が二百数十年にもわたるその治世を通じて、一貫してとり続けた文化振興政策を基盤として生み出されたことは、他の諸文化、すなわち伝統工芸、能楽、茶道等々と軌を同じくするものであります。藩主自らが奨励した茶の湯の普及、浸透に伴って菓子もその一翼を担う文化的存在としての発達をとげました。それは城下の一般市民階級に至るまで広く浸透し、その後、今日に至るまで、金沢特有の菓子文化を支え続ける一般市民のすそ野の広さと層の厚さを形成していったと言えます。さらに富裕な武家社会であった加賀藩は、城中御用は無論のこと、加賀八家をはじめとする上級武家階級、さらには富裕な町人層をも含む菓子の需要層を生み出しました。彼らはお互いの社交や藩主との主従関係、あるいは冠婚葬祭や行事、四季の歳時の折々に盛んに菓子を愛好して用いました。つまり菓子はこれらの階層の人々にとって社交の道具でもあり、また教養の一端でもありました。さらに藩主前田家にとっては藩としての外交、つまり徳川幕府や宮中あるいは他藩の諸大名との交流の場面においても菓子を道具として利用してきました。

このように菓子の一大需要層となった藩主前田家と上級武家たちは、当然にその需要に応えるための「菓子司」を必要としました。こうしていわゆる「御用菓子司」が生み出されることになりました。次回は「御用菓子司」についてです。ご覧いただきありがとうございまいした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?