広場のしりとり
銭湯に行ったら少年とおじさんが湯船でなにやら真剣に話し込んでいた。
温泉や銭湯というのは心も身体もゆるむのが常で、なかなかシリアスにならないのが良いところだと思うので、その二人の妙なシリアスさはやけに目についた。妙だ。
しかし二人はただ、しりとりをしていただけだった。
しかもお笑いくくりルールだった。どうやらお笑いに関することだけでしりとりをするという設定らしい。なおさら何故、そんなシリアスなのか不可解だった。
所ジョージ、ジャルジャル、ルー大柴…
おじさんは所ジョージの「じ」に対して、パッと「時限爆弾」と答えた。
少年は「野性爆弾だし、んもついてるからダメ」と言った。
厳正なるジャッジメントがそこにあった。どうやら少年の方がお笑いに詳しく、このしりとりのイニシアチブも少年が握っているようだった。少年はおじさんにヒントを出してジャルジャルに誘導していた。
そしてついにおじさんは何も出てこなくなった。少年は穏やかに待った。おじさんは「あぁもうダメだ」と言って、悔しがった。ゲームは終わった。
少年は「それじゃ、また」と言って、湯船からあがりスタスタ出ていった。
親子ですらなかったのか。変なものを見た。豊かだった。
変だったが風呂の広場的コミュニケーションとしては、ありなのかもしれない。
毎週か毎月か分からないが、定期的に少年とおじさんはここで会い、ただただお笑いルールしりとりをしているのかもしれない。この湯船だけで展開するコミュニケーション。銭湯はかつて広場だったと読んだことがあるが、その光景はまさに広場だった。日常ではすれ違って語り合わない層と層が混じり合い、やり取りする。有益なのか無益なのかは関係ない。ひとまずのコミュニケーションが発生する。
妄想を駆動すると、もしかしたら少年は不登校で、銭湯だけが他者と触れ合える空間なのかもしれないし、おじさんは大企業の会長か何かで、たまにくるこの銭湯でヒエラルキーのない、損得なしのコミュニケーションを憩いの場としているかもしれない。そんな漫画的妄想が働いてしまう。
そもそも広場のない日本の街。さらに銭湯も消えていくなか、こうした広場の灯りを感じられたのは少し希望だった。
しかし風呂としりとりというのは相性がいいですね。