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文章は、もっと力まず書いてもいい。

カタカタとキーボードを打ちながら、
相変わらず書けないで、文章術をさまよっている。
「文章と私」の探究。3部作?今回で終わるのか?終わらないのか?

売れる文章を書こうと始めた、noteに。
なんか違う、なんか違うと、書けなくなること何度か。

いや、いまだに全然たどり着いた気はしない。

文章は、やっぱり、
自分らしさ」なんだという結論になってきている。
いくつかの本と、有料noteを読んで。

結構読んだかも。

文章を書くことっていった何なのか?
何を書くべきなのか?
どう書いたらいいのか?

の迷宮入り、いや、トンネルの向こうになんとなくの光はあって、そっちだという確信はついてきた。

自分にとって、本当に意外だった。驚きの連続だった。
どうやって書いたらいいのかと調べてたどり着いたのは、
売れる文章の書き方みたいなテクニック、ノウハウ、心理術ではなくて。

自己探求、自己表現・・・ほとんど、ゲシュタルト療法を通じて、やってきたことの、文章版だった。
繰り返し、そういった内容が書かれた本や文章にぶち当たってしまう。
そういう本・文章を選んでるのかもしれないが。。。


今回であったのは、こちら。

1.エッセイは「試み(こころみ)」

末吉さんのnoteを読んでみると、エッセイは「試み」と最初に書かれていました。
なにぃいいー!?ゲゲゲッと衝撃が走りました。
どんだけ、書くことを誤解していたのか、自分と。

西洋のエッセー(英語のessay)の語源は、フランス語のessayer'、ひいてはラテン語の俗語exagiare'で「重さを量る」あるいは「試みる」という意味である

wikipedia「エッセイ」

これは、やってきたゲシュタルトの実験とまた一緒やないかい。
「重さを量る」というのもいい。

ゲシュタルトセラピーの場では、クライアントの悩みや相談を聞きながら、あるテーマや場面がはっきりとしてきたときに
「こういう実験(ワーク)はいかがですか?」
「試してみたいですか?」というようにクライアントに聞く。

ゲシュタルトの実験でも、重さは結構出てくる。
「父が怒鳴っている声を聴くと、体が重いです。」
「体のどの辺で感じますか?」
「肩の上あたり背中の方です」
「そこに、座布団を置いて、重さを感じてみますか?」(実験の提案)
「はい。やってみます」
・・・と実験が始まる。

クライアントは自分で選べる。
実験に乗るか乗らないか。好奇心と自分に合っているか。

そして、実験は、出す方も怖がらなくていい。断られてもいい、二人で作り上げていくもの。

エッセイも、読者が読まなくてもいい。読んでもいい。
読者と作り上げていくものか分からないが、noteはその可能性はありそう。

2.文章は、思考で書くものではない

文章は思考で書くものと思っていた。

ゲシュタルト療法には3つの気づきのレッスンというのがあって、
思考、内側(からだ、感情)、外側(五感)を分けて、
今何に気づいているかを描写する。

心の悩みや問題を抱えている場合に、思考ばかりに偏って、今ここの身体と五感がおろそかになっている。
それをセラピーの場で、3つの気づきの領域にアプローチすることで癒していく。

文章術も、思考だけで、ノウハウを書いてもだめなんだ。
と知った。

読ませる、引き込まれる文章というのは、外側(五感)、内側(身体感覚)を表現することだった。

身体で書くのだ!の本はこちら。

そして、
この文章迷子、noteの書き方探求プロセス自体も、意味のある迷子なのだ。
connecting dots
いつか、どこかで、つながるのかも・・・
価値のあるエッセイなのだと少し認められるようになってきた。
力みが減ってちょっとほっとして書いている。

外側(五感)と内側(身体感覚)の気づきを文章にしてみる。
背中には、じんわりとした汗をかいている。
キーボードのカタカタとした音が聞こえている。
呼吸に合わせてお腹が膨らみ、鼻か乾いた空気が入ってきてる。

読んでみて、どのように感じましたか?
文章は、もっと力まず書いてもいい。



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