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『レスポワールで会いましょう』第10話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々をやり過ごすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになる。
しかし、ある時期を境に、岡田に会えない日々が続く。みのりは終業後、「L'espoir」で待つが……。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。

第10話

久しぶりに読もうとしている文庫本には「あなたに贈る至高のラブストーリー!」と大きく書かれた帯がついている。なんとなくそのフレーズに気後れがして手に取らずにいたものを、みのりはようやく購入した。
ただ、帯をどうしても直視できず、レジカウンターで「紙のカバーをおつけしますか?」との店員の問いに勢いよく「はい!」と返してしまった。

レトロな幾何学模様がプリントされた紙のブックカバーを前に、マグカップを右手に持つ。

いつものように「L’espoirレスポワール」で休憩しようとしていた。
このところは心を大きく騒がせるほどのトラブルはない。気づけば事件から半年近くが経ち、日常を取り戻すことに成功したと言えそうな日々が続いている。相変わらずあかつき新町駅を避けて移動して、誰にも新しく連絡先を教えることができずにいるものの、それ以外はまずまず平穏に毎日が流れていく。

岡田のその後が気になってはいたが、3か月経っても「体調不良」としか伝わってこなかった。後任であるC社の社員はまたも感じがよく、仕事のできる人物だった。

しかし、みのりはその人が岡田ではない事実をまざまざと突きつけられてもいた。右の口角も上がらないし、あのフラットな目線を感じることもない。岡田の不在の大きさ・・・・・・を思い知るはめになった。

文庫本に視線を落とす。小説の主人公は女性だと認識したところで、みのりのそばの自動ドアが開いた。今日は入口近くの席しか空いていなかったのだ。
機械が唸る音に思わず顔を上げると、「いらっしゃいませ」のステッカーが貼られたガラスドアを岡田が通ろうとするところだった。

普段着のようなカットソーとブルゾンにチノ素材のパンツを合わせた、ラフな装いに身を包んでいる。

「あ」
「あ」

レジカウンターの前に移動しながら岡田が振り向き、顎だけで会釈する。

「佐山さん。お疲れ様です」

いつものように挨拶をして寄越す。空白の3か月なんてなかったかのように自然な声色と、和やかな笑顔だ。

(何が「お疲れ様」なんだろう)

みのりの頭のなかに聞きたいことが波濤はとうのように押し寄せてくる。体調不良ってどこが悪いんですか? 3か月でよくなりましたか? もう大丈夫なんですか?

どれも違う。会えたら言おうと思っていたことは、もっと違うことのはずだった。

「体調不良って聞いたので、心配してました。だ、大丈夫なんですか?」

空席の少ない店内。岡田は当たり前のようにみのりの前にトレイを置き、伸びをする小人みたいに背もたれが湾曲した木のチェアに腰を下ろした。

「自律神経失調症だそうです。食事が摂りにくくなって、眠れなくなって、精神的にもかなり追い詰められて。2か月休職しました。先月から復職してバタバタしていて、なかなかここに来られずで」

ばつが悪そうな岡田の表情に、みのりの胸が熱くなる。そんな顔をする必要はないのだと、どう伝えたらいいだろう、と思案しながら真逆のことを口走ってしまう。

「心配してました、ほんとに。何かに悩んでいたなら話してくれればよかったのに、って勝手に思いました、今」

「悩んでいたというか、昇格試験とか新しいプロジェクトとか、本社の上司との関係とか、諸々に追い詰められていたんでしょうね。正直、いっときは苦しかった。この先、働き続けられないんじゃないかとまで考えたし、自分の弱さを思い知りました。でももう、大丈夫」

「よかった。不治の病だったらどうしようとか考えた日もあったので、安心しました」

「昇格試験は一回飛ばしてしまいましたけどね。また来年チャレンジします。どうせこの会社にいる限り、英語からは逃げられないので、気長に勉強も続けます」

岡田もホットコーヒーに口をつけた。熱そうに目をしばたたかせてから、みのりに向き直る。

「でも、心配してくれていたと言ってもらって嬉しかった。僕も会いたかったです。でも、できるだけ仕事関係の人と接触しないように医者から言われてたんで。僕、案外まじめなので」

そう言って笑う岡田の、向かって右の口角がきゅっと上がる。いつものホットコーヒーに、いつもの笑顔。いつものテキストも持っているのだろうか。

「たぶんまじめだろうなって思ってました。そういうの、なんとなくわかってました。ずいぶん前になっちゃいましたが、あのときはありがとうございました」

「あのとき?」

「えっと、由貴さん……情報システム課の遠野さんにお話ししてくれたと聞きました。おかげで誤解も解けて。ほんとうにありがとうございました」

ぽつぽつと話すみのりに、岡田が視線を向ける。向かって右の口角は柔らかに上がったままだ。

「また出すぎたことを言ったなあ、と反省してます。でも、よかった」

顔じゅうに安堵あんどの色を広げた後、もう一度コーヒーを飲んでから、岡田は顔を上げた。今度はきゅっと口もとが引き締まっているように見える。

「今もまた別の企業さんのオフィスに常駐する形で仕事をしているんです。つまり、現在の僕の勤務先はこの近辺じゃない。それなのに、なんで今日、ここに来たかというと、佐山さんがきっといると思ったからです。もっと言えば、待っててくれると嬉しいと思っていました」

岡田もまた、みのりが待っていてくれることを望んでいた。みのりが言葉を選んでいるうちに、岡田が勢いに任せるように続ける。

「電話番号とメールアドレス、教えてください。なかなかここにも来にくくなるので。これからも連絡を取りたいと思っています。ただし、佐山さんは僕のお願いを断ることもできる」

みのりは「ええっと……」と、続けるべき言葉を探した。

事件に遭う前、尾崎から一方的なメールが立て続けに届いた頃のことを思い出した。足がすくむような感覚に襲われ、寒気が全身を包み込み、身動きが取れなくなってしまったときのことを。

「そう言ってもらえてすごく嬉しいんです、でも、教えるのはもう少し先でもいいですか? もったいつける面倒な奴だと思われるでしょうけど、いろいろあって」

岡田は右の口角をさらにきゅうっと上げ、微笑んだ。

「もちろん! みんないろいろ、ある。じゃあ、次の木曜日、またここに来ます。『いつもの』を飲んで、待っててください」

みのりは息を細く吐きながら、ブレンドコーヒーを飲んだ。すっかり冷めてはいたが、香りのよさは残っている。「わかりました」と返事をしてから、笑顔を岡田のほうに向けた。ふと思い出したことを伝えたかった。

「岡田さん、フランス語好きですか?」

「いやー、英語にも四苦八苦しているのに、フランス語なんてさっぱりですよ。大学のときの第二外国語は中国語でしたけど、それも単位をなんとか取るだけ取って、あとはもう……」

「わたし、大学ではフランス文学を専攻していたんです。全然勉強しませんでしたけど。それでね、『L’espoirレスポワール』って、フランス語で『希望』っていう意味なんです」

岡田がマグカップにプリントされた「L’espoir」のロゴに目をやる。流れる風を思わせる、エレガントで瀟洒しょうしゃな字体が躍っている。

「へえ、いいですね、希望。みんないろいろあるけど、いつも希望を持ってる。そういうの、好きです」
「ですね。わたしも好きです」

岡田とみのりは眼差しを交差させた。

(第11話につづく)


『レスポワールで会いましょう』全話一覧

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最終話

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