『レスポワールで会いましょう』第6話
第6話
この国で会社員として日々を送るのに必要なことは、協調できることらしい。誰が何を考えているかを聡く嗅ぎわけ、いやらしさを排除したうえで感じよく共感し、同調する。
仕事において求められるのは的確に、迅速に業務を遂行する能力であるはずだという正論は、そこでは無効化される。
「だって、あの人ちょっとアレじゃん?」
短時間のやり取りで周囲に違和感を与えた人物に下される評価は「ちょっとアレな人」である。空気が読めない、相手が嫌がる単語やフレーズを回避できない、ほどほどの距離感が保てない……それら人々に押された烙印は、ずっとついてまわる。本来ならもっとも大切であるはずの業務遂行に支障を来すほどに。
ルールを守れない、守らない人に対しても、同じく烙印が押される。
第2キャビネットに入れておくべき資料を元の場所に戻さない、戻せない人間は、次第に疎まれていく。「これは第2キャビネットへ、って決まってるよね」。目にはそれと映らない圧力によって疎外され、居場所を狭められる。
不倫なんて、もってのほかだ。
婚姻という社会的な制度によって配偶者同士が相互理解に基づく良好な関係を育み、子を養う。その健全な仕組みを壊すものは異端の存在であり、嫌悪の対象になる。婚外恋愛を扱う文学作品や映画、TVドラマはあんなにも世に溢れているというのに。
今、みのりは自分が最後のパターンに当てはまっていると感じている。
不倫によってプライベートで派手な痴話喧嘩を起こし、警察沙汰に発展させた「みっともない女性社員」のレッテルを貼られている。
「なにがストーカーだ」「なにが被害者だ」。自分の意思ではどうにもならないところで、自分への敵意が増幅していく感覚が、みのりの気分を暗転させた。
噂好きな社員のあいだでは、実際にそういう言葉が飛び交っているのかもしれない。
学生時代のアルバイト仲間だった尾崎とは、事件の2か月ほど前に電車の中で再会した。都心の駅ビルに入る日本料理店で給仕のアルバイトをしていた4年間、いつも顔を合わせていた相手だったのに、5年近く会わないあいだにお互いの環境は大きく変わっていた。
「うわー、かっちりしたお姉さんになってるじゃん!」
尾崎はみのりの顔を見るなり、親しげな声をあげた。
中堅メーカーの正社員として、地味でありながらも実直に働くみのりと、日本料理店を辞めてからは定職につかず、妻ともうまくいかなくなり別居中だという尾崎。こざっぱりとしたトップスとスカートに傷のないローヒールパンプスという装いのみのりに対し、よれたTシャツとブルゾンにジーンズを身につけた尾崎はややくたびれた表情を浮かべていた。
大学時代は同じ店で働き、料理の並べ方をともに教わったり、閉店後、テーブル上の皿をいかに速く下げるかを競い合ったりした仲間でも、それぞれの道を歩いていかなくてはならない。
「頑張ろうね、お互い」
当たり障りのない内容の立ち話をした後、みのりはそう言って尾崎と別れたと記憶している。別れ際に「彼氏とか、いるの?」と尋ねた尾崎のべとついた視線が目に焼きついていたが、もう会うこともないかもしれないと思っていた。
その日以降、誰かにあとをつけられていると感じることがたびたびあった。みのりが暮らす実家の郵便物が何度もなくなり、大学時代から変えていなかったメールアドレス宛てに尾崎から「愛してる」といった内容のメールが立て続けに届いた。偶然を装い、尾崎が実家の最寄り駅に姿を現したのは、事件の前日だった。
平穏すぎるほど平穏な毎日に小さな異状が現れたと察知した矢先に、事件が起こったのだ。そこに不倫や恋愛という要素が挟み込まれる余地はなかった。どこまでも突然で、どこまでも受け身でしか語ることのできない事件だった。
それでも必死に平常心を取り戻し、「いつもの」日々をふたたび手にしようと日常に帰ってきた。
ここで倒れたら、自分の正当性を証明できないかもしれないとおそれたからだ。ここで倒れたら、きっとあることないことを言われるに違いない。ここで倒れたら、「ああ、やっぱり」と一方的に結論づける者たちに力を与えてしまう。そう思っていたから、震える心を立て直しては会社に通い続けた。その決断がかえって「あんな事件に遭ったのに、しれっと出社できるってどういうこと?」との声を生んだのは皮肉なことと言えた。
「L’espoir」でコーヒーを飲みながら、みのりは深いため息をつく。
以前、ヨガ教室で教わった深呼吸を思い出して試してみても、心はちっとも軽くならない。
鼻から思いきり息を吸って、細く吐きます。細く、ほそーく。ほそーく、ながぁーく――健やかな体と朗らかな笑顔の持ち主だったヨガ講師の声が、耳もとで蘇る。ヨガ教室のあの空間が、今は天国ほど遠くに感じられた。
みのりに関するよからぬ噂は、ひそやかに、確実に広まっているようだった。社内のカフェテリアで一人、昼食を摂るみのりに声をかける社員は少なくなっていたし、業務中に接した社員がなにか言いたそうなそぶりを見せることもあった。
定年間際のある男性社員は、みのりが新卒で入社したとき、豪快な笑顔で励ましてくれた。その人が先日は「なんかさー、修羅場だったんだってぇ?」と声をかけるだけかけて去っていった。
修羅場とは、もともとは激しい戦いの場を意味する言葉だ。しかし、一般的に使われる場合、恋愛において不実な行いをした者が咎められ、諍いに発展するシチュエーションを指すのではないか。浮気や不倫、二股が発覚した場合の大喧嘩や、その後のいざこざを。
どうして自分がその言葉を使って語られなくてはならないのかと思うと情けなかった。事件を防ぐ方法がみのり側にどれほどあっただろうか。
コーヒーの香りは鼻に届くけれど、心が感じ取っていないように思える。ここに来たら心が落ち着くはずなのに、今日ばかりはそうもいかない。歯噛みしたくなるほどのむなしさがこみ上げる。
「いつもホットコーヒーですね。たまにはなんとかスムージーとかなんとかシェイクとか、飲まないの?」
笑みを含んだ声が、頭の上から降ってきた。
みのりが顔を上げると、岡田がカフェラテの載ったトレイを右手に持ち、テーブルのわきに立っている。情報システム課での仕事を終え、勉強のためにやってきたらしい。清涼感のあるボタンダウンシャツにスラックスというオフィスカジュアルスタイルに似つかわしい、和やかな笑顔だ。向かって右の口角が柔らかく上がっている。
「お疲れ様です。このあいだは、ありがとうございました」
みのりが添えたお礼は、もちろん遠野由貴とリフレッシュルームで言葉を交わしたときのことに対してだった。あの険悪な雰囲気のなか、みのりを責める由貴を遠ざけたうえで、「もっと言い返してもよかったのに」と言ってくれた岡田に感謝していた。
はっきりと味方だとは言わないまでも、噂を鵜呑みにしない人もいることを示す言葉が、みのりの心をわずかに軽くしてくれていた。
岡田は困ったような表情を浮かべた。
「佐山さんはきっと悪いことはしていないんだろうって、勝手に思ってしまったので。僕、たぶん出すぎたことを言いましたよね。すみませんでした」
「いえ、岡田さんがああ言ってくれて、なんだか救われました。いろいろあって」
「僕は細かいことまでは知らないけど、しつこくもう一度言いたい。佐山さんははっきり言ったほうがいいですよ。自分は悪くない、と言い切ることは必要です」
「でも、業務外の事件だったんです。要はプライベートな話で……」
「プライベートだっていうなら、そういう噂話を仕事場に持ち込んでいる向こうだってルール違反じゃないですか。いいかげんなことを広めるなと、びしっと言ってやればよかったんですよ」
それは、とみのりはわずかに気色ばむ。
「それは、岡田さんのように自由闊達な環境で働ける人だから言えることです。わたしみたいにこういう、古めかしい社風の会社にいて、取り柄もなく、強みも持たない人は周りとうまくやっている証明ができなければ生きていけないんです」
「外資系だから自由だと思うかもしれないけど、働いているのは同じ人間です。社内の雰囲気こそ多少違えど、たいした変わりはないと思います。なのに、佐山さんはおかしな噂に居場所を奪われるっておかしくないですか? そういう閉塞感を生きづらさだとか言ってる人は、生きづらい状況を自分で生産しているようにしか見えません」
恵まれた人は、正々堂々と理想を語る。その事実を見せつけられているようだった。働き手としての実力と価値が自身にあると確信している人ならではの、きれいごとだとみのりは思った。
「人の噂をどうやって打ち消すんですか? 事実と違うことがどんどん広まっていって、否定しようにもプライベートなことで会社に持ち込めない雰囲気に満ちていて。『違うんです』と言ったって、軽くあしらわれることは目に見えてるんです」
岡田に対して語気を強めたところで、なんにもなりはしない。理解しているはずなのに、言葉がえぐみを含んでいく。手の施しようがない社内の空気への苛立ちが、岡田に向かうのを止められなかった。
「佐山さんが『違うんだ』と言うことが無意味だとは思いません。今の状況がおかしなものだと主張するのは正当なことです」
「正当か、正当じゃないかが問題なんじゃないんです、たぶんもう」
みのりの声が力を失っていく。言いながら、そうなのだと改めて感じる。みのりが今置かれている状況は「正当な」ものではないかもしれない。しかし、もうすでに面白おかしく一人歩きする噂話という、残酷なまな板の上に載ってしまったことは取り返しがつかないのだった。
――なんだか知らないけど、なんだかヤバそうなことに巻き込まれた人。なんだかヤバそうだから、関わらないでおこうっと。
社内に漂うその気配が、みのり自身にすらはっきりと感じられた。居心地が悪いという表現を通り越して、針のむしろだと叫びたかった。手垢のついたお決まりの表現をたぐり寄せるくらい、疲れ切っていた。
「とにかく、プライベートなことだから、仕事には関係ないんです。そのうちに、噂なんてなくなるし」
強がりなのか自分でも確信が持てないうちに、みのりはそう言い切ってしまった。岡田はまだ何か言いたそうだったけれど、ひとまず口を閉じ、ワイヤレスイヤホンを耳に入れた。二人の会話は途切れた。
気まずい空間には違いないのに、明日もたぶんわたしはここに来る。みのりはそう思う。「いつもの」が強力な魔法のように、心に居座り始めていた。
(第7話につづく)
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