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『レスポワールで会いましょう』第3話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷も癒えぬまま、元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々の仕事をこなそうとするなか、カフェ「L'espoir(レスポワール)」で過ごす一人の時間を大切にするようになるが……。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関わる描写があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。

第3話

仕事を終えると「L’espoirレスポワール」でひと息つくのがみのりの習慣になっている。
入社5年目のみのりにとって、喫茶店でのコーヒー代を毎日捻出することはまだちょっとした痛手と言ってもいい。しかし、セルフサービスのカフェであれば、コーヒーを飲みながら自分の心を鎮めるひとときが安価で確保できる。

それに、「L’espoir」はあかつき新町駅の隣駅から歩いて7分。大通りから一筋入ったところにあり、会社の人間に会うこともほとんどない穴場だ。セルフサービス方式のカフェとしては老舗のチェーン店で、清潔感のある内装と香り高いコーヒー、豊富なフードメニューは幅広い年齢層に人気がある。

「ブレンドコーヒーのショートをお願いします。あ、ホットで」

いつも通り、カウンターで注文と会計を済ませて、空いた席を探す。近くに公立大学があるからか、学生らしい若い男女の姿が目立つ店内に、空席はそれほど多くない。

丸みを帯びた、豆のような形のテーブル席に座ろうとしたみのりは、隣のテーブルで本を読んでいた男性と目が合った。
昼間、管理課にやってきた遠野由貴が紹介してくれた岡田だった。
「協力会社さん」とはいえ、有名な外資系IT企業の社員らしい。由貴がお昼休みにランチを摂りながら教えてくれた。

(エリートさんだ)

とっさにみのりは心の中でそう呟いていた。超大手と言っていい外資系企業に勤める岡田は、みのりの目には「選ばれた人」として映る。あの会社に入るのって狭き門だよねえ、という由貴の声が耳に張りついている。まぶしい人は苦手だ、とみのりは身構えた。

「あ、管理課の……」

テーブルに広げた書籍から視線を上げた岡田も気がついたようで、みのりの名を呼ぼうとして言葉に詰まっている。

「はい、佐山です。お疲れ様です」

岡田の手もとにあるのは、英語の書籍のようだ。見出しには躍るような字体のアルファベット、その下に小さな文字列が端正に続いていくページ構成が見てとれた。
そこで二人ともが言葉に詰まった。会社ビルの入館証をつくるために由貴が管理課を訪れたとき、顔を合わせただけなのだ。岡田のほうはみのりの名前すら覚えていなかった。

会話の続かない相手と同席してしまったときはドライに接するに限ると、みのりは思っている。利害関係のほとんどない相手であれば、なおさらだ。

さりげなく、しかし確実な足取りで、岡田のテーブルから三つ向こうの席に陣取った。お喋りに花を咲かせるおばさま方とも、出口のなさそうな議論を戦わせる中年男性グループとも少し距離がある。
落ち着ける席と言えそうだ。

「じゃ……」

岡田に会釈し、みのりはスマートフォンを取り出した。事件以来、心配性の度を増した母からのメールをはじめ、メールボックスを確認しては返信して未読サインを一つずつ消していく。夕方のネットニュースにもざっと目を通すのが日課だ。
文庫本を開いたら、活字の群れに視線を沈みこませる。

「L’espoir」にいると、思う存分、考えごとや読書ができるからいい。みのりは、300円とは思えない香ばしいブレンドコーヒーで満たされたカップを口もとへと運び、活字を目で追いながら、思う。

夜が始まったばかりの時間帯の「L’espoir」は、驚くほど多様な人々のたまり場だ。学生たち、社に戻る前にひと仕事片づけようとパソコンを開くサラリーマン、何ごとかひそひそと話しこむ初老の男女、お化粧直しに精を出す若い女性2人組、なぜか3冊の本をかわるがわる読み進める青年。

「結局さ、あいつの曲だってスティングの丸パクリなわけよ」

ひときわ大きな声を張り上げる中年男性に、つい目をやってしまう。仮に電車のなかですれ違ったとしても記憶に残ることはないだろう風貌と装いの男性は先ほどから、有名な日本人アーティストの楽曲はすべて、海外でかつて売れたシンガーたちの作品の焼き直しでしかないといきどおっている。「俺が思うのは……」と主張を続ける。
みのりは自分の背中を無遠慮に叩く声を聞きながら、「『俺』がオリジナルのオンリーワンだったことはあるのかな」と意地悪な思いを巡らせた。

そんなふうに斜めに店内を見渡していると、自分自身までも俯瞰で眺められるような気がする。慌ただしい日々のなかでおざなりに流してしまった行動の数々を、冷静に振り返れるかもしれないと期待する。
自省を試みる時間を持つことが、気持ちを穏やかに保ってくれることを、みのりはすでに学んでいた。

ふたたび文庫本に視線を落とす。喧噪と静けさが織りなすコントラストは、仕事からみのりを引き離していく。頭上に「非接続」のランプが灯るような時間が、心を鎮静化させてくれるのを感じる。
事件があってから、ざわめきに包まれた「L’espoir」での時間は、みのりにとってさらに大切なものになっていた。

20分後、本の世界に没入していたみのりは、何らかの作業を終えた岡田が「お疲れ様です」と声をかけて去っていくのに気づかずにいた。

(第4話につづく)


『レスポワールで会いましょう』全話

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話

第11話

最終話

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#恋愛小説部門
#小説


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