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『レスポワールで会いましょう』最終話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々をやり過ごすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになる。
その後、会えない日々を経て再会した二人は、少しずつ距離を縮めていき……。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。


最終話

輪郭もあざやかな月がのぼり始めた夜、岡田が「L'espoirレスポワール」で一つの提案をした。えっとですねえ、と言って話を切り出す様子は、照れくさそうにも見えた。

「……たまにはこのカフェの外で会う、っていうのはどうでしょう。いつもここで会うというのも、どうも」

岡田はそう言って、困ったような笑みを浮かべた。みのりは右手をぱっと広げて突き出し、その笑顔が目に届くのを遮った。心が揺れる前に、自分の気持ちを正確に伝えたかった。

「外で会うのはちょっと心の準備が要ります。しつこいと思われるかもしれないけど、わたし、まだ事件のことを引きずっているような気がしていて……。いえ、決して岡田さんのことを犯人と同じような奴だとか思っているわけじゃないんです。ただ、気持ちが縮むような感じというか、自分の意図しないところで今も怯えているというか……」

岡田はほんの一瞬、みのりの目を射るように真剣な眼差しを向けた。彼女が事件で負った傷は、心のなかの自覚できない部分にまだ潜んでいる。そのことに意識を向けていたのだろう。
そして、ひゅっと目を細め、もう一度大きく笑った。アシンメトリーないつもの笑みは、屈託がないのに思慮深い。

「いいんです、いいんです。すみません、無理はさせたくありません」

「ごめんなさい。でも、岡田さんとここでこうやって過ごすのはすごく楽しいです」

「そう思ってもらえるだけで今は十分です。嬉しいな。『L’espoir』でカフェデート、いいじゃないですか」

みのりの胸のうちは、じわじわと熱くなりながらも穏やかさを保っている。

「惚れたとか腫れたとか、ビビビッときたとか、そういうことだけが恋愛だとは思わないと僕は言いました。その考えは今でも変わっていません。ゆっくり話して、理解して、理解されて……という寄り添い方でいいと僕は思います。そうこうしているうちに『L’espoir』の外に出られる日が来るかもしれないし、来なくてもそれはそれで構わない」

みのりは大きく頷いた。早く恋ができるまでに「回復」しなくてはならないと念じ続けていた。パーフェクトな日常を取り戻すのだと心を追い立てていた。
しかし、今はこうやってお互いを理解するプロセスを大切にしながら、少しずつ近づいていけばいいのではないか。必ずしも情熱的な求愛や、やけどしそうに熱い思慕がなくたって構わない。

「岡田さんが前に言っていたみたいに『繋がり』を大事にしていきたいです」

「そうですね。繋がっていれば、大丈夫」

岡田はおそらく「大丈夫」にいくつかの意味を重ねたに違いない。待っているから、大丈夫。傷はいつか癒えるから、大丈夫。二人なら、いろいろあっても、大丈夫。

みのりの手には、期間限定のストロベリースムージーのグラスがある。ブランド苺をふんだんに使った、春の新作メニューだそうだ。会計カウンターにいたアルバイトの女の子がメニュー表を指差して教えてくれた。
今日のみのりは、迷わずそのスムージーを選んだ。「L’espoir」でブレンドコーヒー以外のドリンクを注文したのはいつぶりだろうか。

ストローで吸い上げるのにわずかな力を要する、もったりとした薄紅色の液体が口の中を満たす。清々しく爽やかでありながらも濃厚な甘さが舌の上に流れ込む。みのりにとって新鮮な味だ。春が来たことを噛みしめる。

「お、珍しい。どうですか、新作スムージー?」

岡田がみのりのグラスに目をやる。みのりが小さな一歩を踏み出したかもしれないことに気づいたのかもしれない。向かって右の口角が上がる。この人は「にんまり」するときもこうなのだ。

みのりは、自分の心が膨らんでいく気配を感じた。今までは日常を取り戻すことにばかり躍起になっていた。けれど、初めてホットのブレンドコーヒーではない飲み物を注文してみたのと同時に、心のなかで何かが動いたように感じられた。

かすかで、頼りない一歩。けれど、一歩はこれからも続く。小さな歩みを重ねることで道が開けていくのだと思えた。

いつか自動ドアをくぐって、二人で外の世界へ出られる日が来るといい。ささやかながらも確かにある希望レスポワールが、みのりの「これから」を連れてくる。その隣に、岡田がいてくれれば幸せだろうと思った。

2024年元旦、午後4時10分頃。

能登地方は震度7の地震に見舞われた。石川県にある岡田の祖父母宅に帰省していた岡田とみのりも被災した。岡田は祖父を背負い、みのりは岡田の祖母と母と3人で手を繋ぎ、半壊した祖父母宅から避難所へと移動した。命があっただけよかったと、泣きながら励ましあった。

7年前に、岡田とみのりは結婚した。なだらかな丘をのんびりと登るような交際期間を経て、親族だけを招いた結婚式を挙げた。二人は、燃えるような熱情とも、身を焦がすような恋慕とも無縁の絆で繋がっている。結婚はしたが、子どもはいない。それぞれの気持ちに従ったらそうなった。二人でマイペースに歩むのが岡田とみのりの愛の形、結びつきの形だ。

ストーカー事件が起こった年から12年が経っていた。尾崎は起訴内容について争うことなく4年半の実刑判決を受け入れ、すでに刑期を終えて出所している。みのりは尾崎の出所時期が決定したという連絡を受けたとき、岡田とともに住まいを移した。A県内ではあるけれど、ゆかりのない土地へ。

現在、再被害防止制度の対象者として、みのりと岡田、実家の家族の居所は警察に知らせてある。できるだけのことをして、安全に暮らせる環境を整えたつもりだ。おかげで新しい生活はスムーズな滑り出しを見せた。以降、二人の暮らしは穏やかに続いてきた。

能登半島地震が発生して2日後、一階の半分が大きくひしゃげて住むことが叶わなくなった自宅を前に、岡田の祖父母と母は茫然ぼうぜんと立ち尽くした。

「これから、どうしようねえ」

消え入りそうに弱々しい声でそれだけを呟くのが精一杯の母に、岡田が語りかける。

「なんとかなるよ。繋がっていれば、大丈夫。いつのまにか、みんな大丈夫になるんだ」

身内に話すとき特有の、遠慮がないのにたっぷりと優しさをたたえた岡田の声が、冷たい風のなかを渡っていく。母の肩を抱くその後ろ姿を、みのりは眺めていた。

──繋がっていれば、大丈夫。

(完)


『レスポワールで会いましょう』全話一覧

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話

第11話

最終話


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