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『レスポワールで会いましょう』第9話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々をやり過ごすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになる。
しかし、ある日を境に、岡田に会えない日々が続いて……。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。


第9話

みのりが今さら痛感しているのは、岡田の存在がいつのまにか日常を構成する一つの要素になりつつあったことだ。

L'espoirレスポワール」に行けば、淡々と英語のテキストを読み進める岡田が見られる。ときには言葉を交わす。「英語、まじで嫌だなあ」とぼやくその横顔を、見るともなしに視界の端に収められる。

岡田の言葉はどんなときもフラットで、誰の肩も容易には持たず、迂闊うかつなジャッジを下すこともない。ただ一度、みのりについて「悪いことはしていないだろうと思ったんです」と軽はずみとも言える勢いで断定したときを除いて。

「でも、ほんとうのところはわからないじゃないですか」

これまで話したなかで、岡田が幾度も口にした言葉だ。
他部署の上長の名を挙げ、「あのチームのマネジャーも、わたしにはいい印象を持っていないと思うんですよね」とみのりがこぼしたとき、岡田は思い込みを取り払うべきだと主張した。

「おかしな噂を信じる人がすべてじゃない。誰でも、その人だけの本心を持ってると思いますよ。そんなの話してみなきゃ、接してみなきゃわからないじゃないですか」

岡田は、物事を見るときに自分だけの目を通すことと、判断を急がないことを重視しているようだった。だからこそ、みのりに関するよからぬ噂ではなく、自らが接して得た感触を頼りにしたのかもしれない。

「なんだかヤバいことに巻き込まれたヤバそうな女」とみのりを見なすのは簡単だったはずだ。しかし、岡田はそうしなかった。
みのりが懸命に保っていた笑顔を、もとどおりの日常を取り戻そうとする必死の努力を見ていてくれた。

──佐山さん、いつもにこにこしてるから。

岡田の言葉に、「あれは仕事用の笑顔ですから」と返したみのりだったが、あのとき心は確かに救われていた。無理やり張りつけた笑顔でも、それを認識していた人がいる。ひとり相撲にも似た踏ん張りを見ていてくれた人がいる。その事実がみのりをなんとか立ち上がらせた。

岡田の存在が「いつもの」ものへと変化したことに、みのり自身が気づいていたはずだ。事件による心の傷が男性に近づくことをはばんではいたが、岡田に対しては警戒を緩めてもいいような気がし始めていた。
仕事帰り、「L'espoir」に立ち寄り、いつもの岡田の姿と、いつもの軽い会話に触れることで、だんだんと元どおりの日々に戻っていけそうだと感じるようになっていた。

それなのに。

岡田はこのままみのりの前からいなくなってしまうかもしれないのだ。

みのりの会社における外部スタッフである以上、岡田はC社の別の社員と交代すればそれで終わりだ。どんな種類の体調不良なのか、症状の深刻さはどれほどのものなのか、みのりにはもう知ることができない。

事件が起こる前から、みのりは恋愛に関しては執着の薄いほうだった。世間一般で彼氏と呼ばれる関係の男性がそばにいたのももう2年ほど前になる。
恋愛関係にある男女間の好きとか嫌いとか、濃密な感情にいまいち確信を持てないままに付き合い、破局した。いわゆる彼氏だった人は言った。「なんか、みのりにとっては彼氏が俺じゃなくてもいいような気がする」と。

言われてみれば、彼でなければならないと思い詰めたことがない。社会的に「まともそう」で優しそうで、なんだかわたしのことを好きそうでいてくれる人。みのりにとって彼氏とは、なんとなくそばにいてくれる存在としか捉えられていなかった。
また、極端な至近距離で寄り添いあう関係性にも、ぴんと来なかった。心のなかには近づいてほしくないエリアがあることを理解してもらえないのが息苦しかった。

けれど今、みのりのなかで岡田は、岡田自身のことをもっと知っておけばよかったという強烈な後悔へと続く存在になっていた。

もう会えなくなるくらいなら、ちゃんと聞いておけばよかった。

岡田が住む場所も、出身地もみのりは知らない。彼が何を考えていたのかも、おおよそ見当がつかない。

みのりが大切に思えるのは、有名な外資系企業の社員であることや、遠野由貴いわく仕事ができるといった要素ではなかった。

あの向かって右側だけがきゅっと上がる口角の具合だとか、よけいな角度をつけず冷静に紡ぐ言葉の数々だとか、「お疲れ様です」とみのりにだけ向ける穏やかな声だとか、今になって思い返されるのはそんな小さなシーンばかりだった。
「いつもの」をつくり出していたあれこれになぜ気づかなかったのだろう。なぜここでのつかの間のひとときを愛おしみながら過ごさなかったのだろう。

「L'espoir」で、その廉価さに見合わないほど香りのよいコーヒーを口もとに運びながら、みのりはこれまでの人生で味わったことのない後悔に包まれていた。

(もう、会えないのかな)

肩を落としながらコーヒーを味わうのがこれで何度目になるか、みのりにはわからなかった。

(第10話につづく)


『レスポワールで会いましょう』全話一覧

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話

第11話

最終話

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