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『レスポワールで会いましょう』第5話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々をやり過ごすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになるが……。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。

第5話

みのりは紙カップにコーヒーがじゃぼじゃぼと落ちてくるのを眺めていた。

座り心地がよいとは言えない椅子に腰を据え、デスクに向き合う時間が続いたので、気分転換にと社内のリフレッシュルームに出てきたのだった。

背後で風が起こった気配がして、情報システム課の遠野由貴がみのりの右脇に現れた。紙カップ自販機の隣には、ペットボトル飲料だけを扱う自販機が並んでいる。

そういえば、と思い出す。

由貴との気楽なランチタイムが最近減っていることに、みのりは気づいていた。とりあえず「お疲れ様です」と声をかける。

返事はない。由貴は自販機のコイン投入口に500円玉硬貨を滑り込ませながら、みのりのほうに顔を向けずに口を開いた。

「なんかさあ、不倫してたんだって?」

由貴に向き直ったみのりは、その冴え冴えとした横顔に視線を張りつかせた。なんのことだろう。湿り気を失った唇を開き、「どういうことですか」と答えるのが精一杯だ。

「どういうこともなにも。今回の事件だよ。ストーカーに遭ったなんて言ってるけど、結局は不倫の果ての痴話喧嘩ちわげんかなんでしょ、ってこと」

目の前の空間がゆがみを見せたような気がして、みのりは足もとに力を入れた。そうでもしないと目眩めまいで倒れてしまいそうだ。

「不倫……? 痴話喧嘩……?」

ベージュがかったピンク色のチークが濃く入れられた由貴の頬から視線を外せないまま、みのりはおうむ返しする。

「事件があったとかいう日、会社の人が見てたんだよ。あなたがシルバーのワンボックスカーに乗り込むところ」

がこん、と音がして、由貴が硬貨を入れたペットボトル自販機の取り出し口にミネラルウォーターが落ちてきた。お釣りの硬貨も一枚ずつ絞り出される。苛立ちを示すような機械音が低く響く。

由貴はようやくみのりに向き直り、もう一度、言葉を走らせた。

「自分で助手席に乗り込んだんだってね。その車には『赤ちゃんが乗ってます』のステッカーがついてた、って」

そういうことか。みのりは気が遠くなる感覚にとらわれ、痛いくらいに口もとを突っ張らせた。

事件の日、みのりを乗せた尾崎のワンボックスカーが発進するところを、社内の誰かが見ていた。助手席に上半身を入れたみのりが車の中に引き込まれる瞬間を。そして、「誘拐や拉致ではなく、佐山みのりが自分の意思で妻子持ちの男の車に乗り、出かけていった」と触れまわっているらしかった。

「たしかに、わたしが迂闊うかつで、『何もしないから乗って』と言われて乗り込みそうになったのは事実です。けど、自分から乗り込んだというのは違います。それに、不倫してたなんていうのも嘘です。わたしと犯人は単なる知り合い程度の関係でした」

思わず言葉に力を籠めてしまう。そんなみのりの様子を冷めきった目つきで見やる由貴。
ふうん、必死だねえ、図星なんだねえ。まるでそう言っているような顔つきでミネラルウォーターを手にしている。

「でも、みんな言ってるよ。ストーカーの被害者なんかじゃなくて不倫のもつれじゃん、って」

眼差しに敵意のような熱をこめ、あごを上げてみのりに向き合う由貴には、かつての親しげな様子はもう見られなかった。由貴がもう一度口を開く。

「ほんとうだよ。みんな言ってるからね」

みのりの声が震える。唇の隙間からこぼれていく言葉たちは、どれも弱々しく、自分のものながら空々そらぞらしいまでの無力感を伴っていた。

「みんなが言ってるかどうかは問題じゃありません。それは事実じゃないんです」

かろうじて口から出せた反論は、簡単にあしらわれた。

「ふーん、そうなんだ。でも、これからお昼は別で食べてね。そのほうがいいから。私らも無理だし」

何が「そうなんだ」なのか。悲しさと情けなさと、どこにぶつけていいのかわからない怒りがこみ上げる。
家庭を持つ由貴にとって、不倫という言葉と、不倫に手を染める女など、毛嫌いの対象以外の何物でもないのだろう。

――わたしが尾崎と不倫関係に陥ったことが事件の原因だという噂が社内に広がっている。不倫カップルの痴話喧嘩が「みっともない事件」へと発展したに過ぎない、と。おそらく「自業自得」なんていう言葉だって使われているに違いない。

由貴の態度から透けてみえる事実が、みのりを打ちのめした。自分が招いたわけではない事件が、みのりの心をつぶしていく。噂というもののおそろしさ、抵抗できないことの重みがずしりとのしかかってきた。

しかし、みのりにも「みんなが言ってるから」という免罪符を当たり前のように振りかざした過去があったはずだ。たとえば、非の打ち所がないほどに美しい俳優を見て、「絶対、整形してるよねえ。目頭がおかしいって、みんな言ってるもん」と力み、友人と頷きあった日が。

みんな言ってるもん・・・・・・・・・

頭の中に、かつての自分の言葉が響いた。視界がちかちかと閃光せんこうに満ちるような錯覚がある。自分を睨みつける由貴になにも言い返せないまま、立ち尽くす。

「みんなが言っているから」という言葉の暴力性は、大昔の自分だって認識していた。「みんなが言っている」ことと、疑惑が事実であるかは、必ずしも結びつくわけではない。

由貴だって、本来ならばそこに思いが至らないほど浅はかな人間ではない。不倫や嘘、隠し事。不実な行いに対する嫌悪感が彼女をひた走らせているように思えて、みのりは返す言葉を見つけられなかった。

リフレッシュルームの中で、また風が動いた。
情報システム課から出てきたらしい岡田が、由貴に声をかけに来たのだ。

「遠野さん、今度のリプレースの件でマネジャーが呼んでますよ」

由貴とみのりのあいだに漂うただならない空気を感じ、声をかけるタイミングを自販機の陰で見計らっていたようだ。いつからそこにいたのだろう。

「あ、すみません、すぐ行きます」

話を聞かれたかもしれないという気まずさと、上司を待たせていることによる焦りから、由貴は急いで体の向きを変え、小走りになる。パタパタという足音を残し、その姿はリフレッシュルームから消えた。

まだ立ち尽くしているみのりに、岡田が声をかけた。

「僕は本当のことなんて知らないですけど、関係ない奴ほどいろんなことを言います。気にしないことです」
「……岡田さんも知ってるんですね。やだな、こういうのって、広まるの早いな」

力なく笑って話を流してしまおうとしたみのりに、岡田がもうひと言、投げかける。

「それでも、もっと怒ってもよかったと思うけどな。僕が口を出すことでもないと思いますが」

みのりは黙って体を少し屈め、コーヒーを自販機から取り出した。紙カップをたっぷりと満たす茶色い液体が不安げに揺れた。

いつのまにか岡田はいなくなっていた。

(第6話につづく)


『レスポワールで会いましょう』全話一覧

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最終話

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