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『裸の聖書』6. 黙示録:啓示の誤解 -3

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。
「黙示録:啓示の誤解」3回目、少し短めとなります。

黙示録と聞くとこの世の終わりをイメージする方は多いのではないでしょうか。一般的にそう信じられていますよね。だけどビグリーノ氏はそうではないと言い切ります。
暗号、666、週末論、、、興味深い話が満載です。

前回の記事はこちら↓↓↓

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黙示録:啓示の誤解 -3

「啓示(=アポカリプス)と言えば、聖書の終章であるヨハネの黙示録(=アポカリプス)に、ある種の強調を生み出してきた信念のいくつかを、そろそろ払拭しなければならないと思う。実際、ヨハネの黙示録は『この世の終わり』に言及していると一般的に信じられているのだが。」
違うのか?
「残念だが、そうではない。あの本は、基本的に初期のキリスト教共同体に向けられているようなのだ。それは『政治的』なテキストであり、敵対者にいかに用心するかについて的確な指示が書かれている。」
つまり、サタンに?
「そうではない。敵とは、ネロ皇帝ルキウス・ドミティウス・エノバルブスのことだ。」
少し背景を説明しよう: 福音書記者ヨハネが書いたとされるテキストは、おそらく1世紀末にギリシャ語で書かれたものだが、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の極めて露骨なリアリズムとは共通点がない。当時流行していたヘレニズムの文学文化の影響下で編纂された新約聖書では、あからさまに幻視的な側面が支配的である。
「黙示録は、初期のキリスト教会のために暗号で書かれたテキストのようだ。その文書は暗号化されており、初期の教会が特にローマ皇帝から受けた迫害から自分たちを守るための指示や勧告が書かれている。」
例えば、悪名高い666とは、いわゆる『獣の数字』のことである。
原文では、獣は奇妙な動物として描写されている:『獣は子羊のような二本の角を持ち、ドラゴンのように話していた。』それは『大いなる奇跡を起こす』獣であり、それによって、『地上の住民を誘惑する』。そして、『老いも若きも、富める者も貧しい者も、自由人も奴隷も、すべての者が、右手か額にしるしをつけられ、そのような獣の名、またはその者の名をあらわす数字がなければ、だれも物を売り買いできなくなる』。
ここに知恵があることを、テキストがほのめかしている:『知性のある者は、獣の数を計算しなければならない:それは実際には人間の数であり、その数は666である。』
それは、ネロなのか?ローマ帝国主義(軍事および商業)が、この意図的に曖昧にされた文書の本当の標的なのだろうか?
「ラテン語の硬貨では、ネロ(Nero)という名前(666は数字の転写)は、単にネロと表示されている」とビグリーノは説明する。
しかし、この数字には、興味深い特徴がある。「黙示録の正典として公式に収録された版の作成に使用されたもの以外の写本には、異なる数字がある。オシリンクス作の写本115番には616、他の写本には665がある。」
それだけではない。
「新約聖書の正典を定めたリヨンのイレナイオスは、これは写字生の誤りだと考えた。しかし実際には、この数字は666という数字をラテン語で読み直したことに由来している可能性がある。」
『ネロ』という表現はラテン語で書かれたローマ硬貨に現れるが、ギリシャ語で書かれた硬貨では状況が変わり、そこでは、皇帝は『ネロン』となる。
「最後のNの数値は50であり、616と666の正確な差である。これは、『獣の数字』が本当にネロを指している可能性が高いことを示している。」
しかし、早合点は禁物だ。これには、別の解釈がある。「616 という数字は、ネロの前の皇帝であるカリグラという名前の数字転写である可能性もある。」
ネロであれカリグラであれ、一般的な意味は変わらない。
「どちらの場合も、この数字は初期キリスト教の真の敵であると考えられているローマ皇帝を指しているようだ。」
では『終末』は、ないのか?
まったくない。
「ヨハネの黙示録には、正しい者は救われる新王国の到来と樹立が差し迫っている、という感覚があった当時の救世主的希望が記されているようにわたしには思える。」
ほぼ2000年が経過した。しかし当時は、新時代の到来が即座に、一日また一日と期待されていた。
このように読み直すと、黙示録第7章の言葉はまったく別の効果を持つ。
「...大ぜいの群衆が...御座と小羊の前に立ち、白い衣をまとい、手にシュロの葉を持っていた。」
白い衣をまとった正しい者たちは、『大声で叫び、御座におられるわれらの神と小羊に救いをと言った。』
この正しい者たちは何者なのか?どこから来たのか?
長老の一人がテキストの筆者にこう答えている: 『彼らは大いなる苦難をくぐり抜けてきた者たちで、その衣を小羊の血で洗い白くした。それゆえ、彼らは神の御座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕えている: そして、御座に座しておられる方は、彼らの間に住まわれる。』
これらのことは確かだ:『彼らはもう飢えることも渇くこともない; 太陽も彼らを照らさず、暑さもない。御座の真ん中にいる小羊が彼らを養い、生ける水の泉に導き、神は彼らの目からすべての涙を拭い去られる。』
言い換えれば:彼らの贖罪は近づいたということだ。
「黙示録の読者たちは、おそらく切実に叫んでいたのだろう」とビグリーノは言う。「あの文章は特に彼らのために書かれたのだ。」
その約束とは、不正義がこの世から消し去られることであり、それは直ちになされるということだった。
「これらの救世主の期待はイエスによってすでに表明されており、イエスはそれを新王国の樹立のように差し迫った、実際すでに始まっているものとして示した。ルカによる福音書第17章では、イエスに『神の国はあなたがたの間にある』と言わせている。新王国の到来は、その同じ世代に確立されるのだ。」
物事はそうは進まなかった。
典型的だ、結局: 大イスラエルの約束でも同じことが起こった。



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真実のグレート・リセット -1 へ続く
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