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『裸の聖書』24. 新生児さえもすべて絶滅させよ: ヤハウェの言葉 -3

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。

聖書の解釈には神学的、秘教的、象徴的、ゲマトリア・カバラ的な解釈等々、色々あるようです。けれど何故か文字通りに読む、直訳だけは常に避けられてきたとビグリーノ氏は仰っています。
文字通りに受け取られては不都合な真実があるのでしょうか?

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新生児さえもすべて絶滅させよ: ヤハウェの言葉 -3

ビグリーノはため息をつく。
「批判する人の中には、わたしを責める人もいる。彼らによれば、わたしは『無知な人の読み方』、つまり何も理解していない者の読み方をしているのだという。彼らに言わせれば、語られた事実を文字通りに受け取るものではないということをわたしは理解していないというのだ。その通りだが、しかし具体的にどの事実のことを言っているのか?」
つまり言い換えれば?
「わたしが文字通りの解釈を重視していると非難する人々は、創世記の冒頭にあるような節を、自分たちに都合がいいときに正当化する人々と同じである。『はじめに、神は天と地を創造された。』この場合、間違った翻訳に基づくとはいえ、彼らにとっては文字通りの読み方がちょうどいいのだ。それは適切なのだろうか?」
要するに、偉大な奇跡を起こす存在である『神』という表現を目にするときは、(不自然な)翻訳による聖書の直訳的な読み方で構わないが、物語が明白に露骨になり、どう考えても酷く不当な、受け入れがたい野蛮な暴力行為が明らかになると途端に象徴的な解釈が速やかに提示されるのである。
ゆえに、マウロ・ビグリーノは大いに懸念している:「もしわたしが神を称え祝福しなければならないとしたら、本当にそのような方法でそれを表現できるだろうか?」
屠殺、虐殺、赤ん坊が殺され、そして文字通り焼かれる。
聖書の歴史的妥当性を否定する人たちは、聖書の著者たちが自分たちの神を示すために、どうしてこれほど多くの残虐行為を捏造できたのかを説明するのに必然的に大きな困難を感じる。
「わたしは、文字通りの読み方だけが唯一の方法だと言ったことはない。」とビグリーノは明言する。「しかし、直訳は常に避けられている唯一の方法であることは指摘しておかなければならない。わたしの意見では、それは少なくとも同等の地位に値するものであり、旧約聖書の他の解釈、すなわち神学的、秘教的、象徴的、ゲマトリア・カバラ的な解釈と同じレベルで考慮されるべきだ。結構だ、異論はない。どれも正当なものだ。しかし、文字通りの解釈も含めるべきではないだろうか?それはわたしたちがまず最初に負っている義務だろう:実際のテキストを一字一句正確に読むことだ。わたしにとって、聖書の著者を尊重し、彼らが伝えようとしている言葉を注意深く読むことは本質的なことなのだ。」
詩篇は、単なる部分的な朗読の典型的なケースである。
多くの場合、これらのテキストの一部だけが、熱心に朗読される。他の部分が軽視されるのは、それが慈悲深い神の存在という神学的概念に合致することがありえないからである。
詩篇は常に、唯一の霊的かつ超越的な神に捧げられた栄光と感謝の歌としてわたしたちに提示されるとビグリーノは強調する。
「しかし、実際はまったく違う。民衆が指導者に向けて歌う、戦いの勝利を感謝する賛美歌だ。」
それはどうやって知ることができるのか?
いつものやり方、つまりテキストを読むことだ。
「最も有名な詩篇のいくつかを読めば、その真の性質がはっきりと理解できる。」
例えば詩篇136篇には、『神』の『永遠』の愛がある。
「そして、この愛は全人類に対するものだと解釈されている。」
そうではないのか?
「あり得ない。実際には、この『神の愛』が彼の民イスラエルにのみ向けられていたことは明らかだ。そしてそれは、『神』が他の民族に対する、常に選ばれた民の利益となるような暴力的な行動と関係していたのだ。」
無慈悲な一節である:『主はエジプトの長子を打たれた。なぜなら彼の愛は永遠だからである。』『力強い手と伸ばした腕で』主は彼らを打った、これもまた『彼の愛は永遠だからである』。そして、『主はファラオとその軍を海に投げ込み、強大な王たちを殺し、彼らの土地をそのしもべイスラエルの民に相続地として与えた。』 思い起こされるすべての出来事には、常に同じ決まり文句が伴う。『彼の愛は永遠だからである。』
ここで、これらの『祈り』の真の価値が明確に理解できるとビグリーノは言う。
他の節では、幼児殺しの賛美さえある。
これは詩篇137編の場合で、『滅びの運命にあるバビロンの娘』に向かって、次のような言葉をかけている。『あなたがわたしたちにしたことに対して、あなたに報いてくださる方は幸いである。あなたの幼な子を捕らえて岩に打ちつけてくださる方は幸いである。』
更にもう一つの忌まわしい兆候は、幼い子どもに対する暴力であり、少なくとも元々は日常茶飯事であったことは明らかだ。
マウロ・ビグリーノはまた詩篇18篇を引用する。
この詩篇は、最もよく知られた詩篇のひとつである。なぜなら、この詩篇には、わたしたちが 『主よ、あなたを愛します』という主への呼びかけが含まれているからである。
いくつかの非常に印象に残る信仰的な表現は、想定される神に向けられている。彼は『わたしの力、わたしの岩、わたしの砦、わたしの解放者』と呼ばれている。
しかし、この詩篇はそこで終わらない。
「詩篇全体を読むと、あらためてその本質が理解できる。」
次の節がそれを雄弁に物語っている。
『わたしは敵を追って、これに追いつき、これを滅ぼしつくすまでは帰らなかったのです。わたしが彼らを突き通したので、彼らは立ちあがることができませんでした。あなたは戦いのためにわたしに力を与えました。』
そして再び:『わたしに立ち向かう者らをわたしのもとにひざまずかせ、あなたは敵にその後をわたしに向けさせられたので、わたしは自分を憎む者を滅ぼしました。』
このテキストには、無視できない率直さがある。
『わが救いの神が崇められますように、復讐を許し、諸民族を服従させた神が。』
ビグリーノはこれらの例を要約し、呼びかけの目的とその具体的な価値を明らかにしている。「これは、勝利した民が将軍に感謝の意を表する戦争の歌である。」
その将軍とはヤハウェのことだ。「結局のところ、聖書はヤハウェを文字通り『男の戦士 』と定義している。」
最も残忍な行為が可能な、融通の利かない指揮官である。
さらに、彼は平時であっても戒律に細心の注意を払っている。
また、ワインをこよなく愛し、1日に3~5リットルも飲むという。ワイン、より正確には『シャカール』、大雑把に訳せば『酔わせる酒』である。
「このヘブライ語は、まさに酔っぱらって意味不明なことを言うことを意味する。」
そして、ユダヤのエルが切望した物質はそれだけではなかった。テキストによると、彼はもう一つこだわりのものがあり文字通りそれに夢中だった:煙である。これは非常に特殊な種類の煙で、生まれたばかりの哺乳類の腹部臓器の周りにつく非常に柔らかい脂肪を燃やすことによって作られる。
例えば子羊だ。そして、赤ん坊もだ。
新生児である。




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『神聖なる』屠殺とフェイクニュース:
実在しない出エジプト記の紅海 -1 へ続く
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