透香もも
内側散文
音楽・美術鑑賞記録ノート
ジャンルいろいろ、曲目解説まとめ
エッセイのようなフィクションのようななにか
焦げたアスファルトのにおいが鼻をつく。東京は今日も快晴、何がそんなにめでたいのか、鳴りやまない斉唱を頭の上に聞きながら途切れ途切れの陰を踏み歩く。 連日の長雨に憂いていたと思ったら気付けば八月も折り返しで、わたしは何度でも時の流れのはやさに驚かされる。ひとつ歳を重ねるごとに記憶の順番があやふやになり、多分自分でも気付かないうちに失ったり、脚色されたりして塗り替えられていく。 きっとおばあさんになる頃にはこの瞬間も淘汰されているのであろう。好きだったあの子のことも、目次
もしも来世の姿が選べたら、次はどんな生を選びとるだろう?そんな突飛な話題がでるのはきっと、昼下がりのカフェテラスあるいは夜中の散歩道のように、多少気楽に過ごしているときだろうから、色々な答えが返ってくるかもしれない。海沿いの街で自由気ままに暮らす野良猫。世界中の空を知る渡り鳥。穏やかな海流にゆらめく海月。ひそやかに咲く高原の花。けれどもし、この魂を最後まで使い尽くしたときに、最果てで同じ選択を迫られたとしたら? 人間は情という、得体の知れない大きな渦に振り回されるために
心が揺れると言葉が溢れてとまらなくなる、数字は三歩歩くと忘れる
かなしみは引いては寄せて海みたい
珈琲が飲めるようになったのは あの豆のまろやかな旨みを知ったからかもしれない 珈琲が飲めるようになったのは コーヒーを漢字で書けるようになったからかもしれない 珈琲が飲めるようになったのは 舌がちょっとだけ鈍感になったからかもしれない 珈琲が飲めるようになったのは 悲しみにすこしだけ敏感になったからかもしれない 珈琲が飲めるようになったのは その香りに懐かしさを覚えるようになったからかもしれない 君の面影を探しているうちに 慣れてしまった苦味 珈琲が飲めるようにな
『あなたはなぜ音楽をするんですか?』 突然投げかけられた質問に、考え込んでしまう自分が意外だった。 すこし思考して「つくらないといけないから、、」と言って、ナゼ?と思った。 好きだからと即答していた頃がずいぶん遠くに感じる。 おしゃべりで早口だった小さい頃が別人みたいだ。 傷つかない・傷つけない言葉を探して、よく言葉が詰まる。 この頃言葉が重たいのは、慎重になった証拠だ。 手帖をつける習慣 わたしにとって音楽をすることとつくることは同じで、 つくらなきゃいけないからと
幼い頃の感覚を思い出そうとすると、もう記憶と白昼夢の区別がつかなくなってしまったものが多いことに気が付く。 「こころの内側に内緒の中庭をもつ」 小学校の図書館か、御伽話の空想か、どこで手にしたのかはもう覚えていないが、幼い頃にふとこの感覚を持って以来、ひとりでひっそりと庭の手入れに勤しんできた。 そのことを特段誰かに話すこともなく(必要もなく)、長い時間をかけて自分に馴染みきったその感覚を、わざわざ取り出して考えるということもほとんどなかった。 少し前に茨木のり子さん
風がレースカーテンを捲り上げ、 睫毛の先を通り抜けて、 わたしの前髪を掬う。 気だるさを誘うシャンプーの香り。 この季節の風は水色、風呂上がりの肌の感じと似ている。 昼下がり、瞼の重さを感じながら壁に背を預けている。瞼を閉じる瞬間はいつも曖昧で、微睡のなかを泳いでいるうちに巡り合ういくつかの記憶。 こどもの日、よく家族でプールに出掛けていたことを思い出した。まだ仲が良かった両親と、喧嘩ばかりしていた弟妹の顔。手を繋いで駐車場を渡り、車ではキマグレンの音楽が流れている。 プ
手を伸ばしては 何も無いと繰り返す 空の冷蔵庫に浮かぶ月の無機質さ 裸足で歩く床の冷たさと よく似ている
詩集はその余白に反して、読むのにすごく時間がかかる
東京国立近代美術館 「眠り展」 2020-2021 ルーベンス、ルドンの絵画作品から塩田千春の現代アートまで、多様な媒体を通した「眠り」が混在している会場には、まどろみの中をゆっくりと歩いていくようなやわらかさのある作品から、鋭く攻撃的な空気を感じられる作品など、同様のテーマであってもその切り口は実に多彩なものであった。 作品群の世界観になぞらえて設置された、カーテンを思わせるような布や、壁に描かれた布のようなグラフィック、鑑賞者を作品世界にいざなう言葉の数々、夢の中
阿部 勇一(2008) Yuichi Abe 作曲者の阿部勇一は、1968 年埼玉県所沢生まれ。主に吹奏楽曲・ブラスバンド楽曲・アンサンブル楽曲などを手掛けており、代表曲として『沈黙の地球(ほし)~レイチェル・カーソンに捧ぐ~』(2008 年)、『ラメセスⅡ世』(1994 年)、『大唐西域記』(2022 年)などが知られている。 冒頭部のぶつかりあう四和音が、クラリネットの音色が持つ解放感を助長し、明るく鋭敏な感覚を印象付ける。のちに続くいくつものフレーズが、生き生
サンフランシスコバレエ団による2011年公演の作品「人魚姫」を鑑賞した。史上最年少でプリマ・バレリーナに選出されたタン・ユアンユアンをはじめ、リギンス・ロイド、ヘリメッツ・ティット、パッテン・サラ・ヴァン、カラパティアン・ダヴィットらが出演している。ジョン・ノイマイヤー振付作品であり、彼のルーツであるロイヤル・バレエ団やシュツットガルト・バレエ団、ハンブルク・バレエ団などの系譜を継ぐ物語バレエとなっている。 船上で行われている王子とプリンセスの婚礼のさなか、プリンセスへ
「琴線に触れる」という表現に対し、以前からこの言葉自体が自身の琴線に触れるような感覚を有しており、凛とした美しさのようなものを感じてきた。大学の授業で箏を学び、実際に琴線に「触れる」中で、再びこの言葉に対するいくつかの疑問が浮き上がったため、本記事ではその由来と楽器のルーツとの関係性について取り上げることとする。 箏は古来より盲人の特権職業とされており、そのことから目ではみえない何かを手繰り寄せる集中力、そして素朴な作りの楽器から奏でられる、侘び寂びに富んだ音色の繊細さ
組曲「魚とオレンジ」より「はなやぐ朝」 作曲:中田喜直 作詞:阪田寛夫 みかんのたねはおにわにまけば もういちどみかんがなります。 すき通る、ビー玉みたいなさかなの目だま。 おにわにうめて眠れば さかなはいつかお空を泳ぐでしょうか。 「はなやぐ朝」は、ひとの一生を8曲の歌で描いた、「魚とオレンジ」という組曲のはじまりの一曲です。作曲家の中田喜直(なかだよしなお)は、童謡「めだかの学校」などでも知られています。春の
組曲「魚とオレンジ」より「はなやぐ朝」 作曲:中田喜直 作詞:阪田寛夫 「はなやぐ朝」は、中田喜直が手がけた組曲「魚とオレンジ」の、冒頭の一曲です。ある少女が思春期の恋愛を経て女性へと成長し、結婚から人生を見つめ、老いていく。女性の一生とこころの移ろいを、阪田寛夫の詩とともに全8曲を通して描いています。 組曲「魚とオレンジ」における、それぞれの女ごころを綴った詩は、その向こう側で「自分を超える圧倒的な何ものかの力で、今までの自分ではなくなる時に直面する瞬間」を主題と