『琴線に触れる』という言葉の由来とイメージについて

 「琴線に触れる」という表現に対し、以前からこの言葉自体が自身の琴線に触れるような感覚を有しており、凛とした美しさのようなものを感じてきた。大学の授業で箏を学び、実際に琴線に「触れる」中で、再びこの言葉に対するいくつかの疑問が浮き上がったため、本記事ではその由来と楽器のルーツとの関係性について取り上げることとする。

 箏は古来より盲人の特権職業とされており、そのことから目ではみえない何かを手繰り寄せる集中力、そして素朴な作りの楽器から奏でられる、侘び寂びに富んだ音色の繊細さ、張り詰めた糸の緊張感などが連想される。
また、宮廷音楽を演奏する楽器として高尚なイメージを持たれている楽器でもあり、これらのイメージが重なった時、「琴線に触れる」ときのぴしゃりと気が張り詰めるような感覚と重ねられ、このような表現が生まれたのではないかという仮説を立てた。

 語源を調べていくと、実際のところは中国周時代の伯牙と鍾子期の故事より、「君が琴を聴く耳は私の心中とそっくりだ」(『列子』「湯問第五」)から生まれた言葉であった。鍾子期は伯牙が奏でる琴の音を聞いただけでその歌の趣意や彼の心情を理解したことから、心の底から共鳴し、感動する様子を「琴線に触れる」と言い表すようになったのが始まりである。なお、日本での初出は国木田独歩の『抒情詩』序「独歩吟」である。(出典:小学館/日本語大辞典)

 はじめに立てた語源の仮説は正しいものではなかったが、箏に対するイメージがこの言葉のもつニュアンスを補強している可能性はあるのではないかと考える。

 琴は本来修身理性のためにプライベートな楽器として演奏されたものであるという事実から(出典:邦楽ジャーナル2004、Vol.206三月号)、「人前で宮廷音楽を奏でる高尚な楽器」というイメージのほかに、しずかに自分を見つめるような凛とした空気を想像させる。これは、何かが自分の感性に共鳴し、深い共感を呼ぶ瞬間の心の凪とも共通する点があると考えた。

 考古学の埴輪研究において箏を弾く埴輪が見つかったことにより、葬送儀礼でも用いられたのではないかと推測されていることや、『古事記』『日本書紀』『風土記』の箏に関する記事の中に、あそび的な使用ではなく祭事や儀礼での使用が暗示されているものもいくつか存在しているということからも(出典:第一書房/日本楽器の源流)、人々は古来より箏という楽器に対しどこか特別な感覚を抱いていることがうかがえる。

 また、「盲人の奏でる楽器」「楽譜に表しきれない演奏ニュアンス」「奥義を詳らかにしない」などの理由から口頭伝承の文化だという事実も、箏という楽器に対するイメージの別格化をすすめているのではないかと推測する。

 これらのイメージが、私たちが「琴線に触れる」なにかと巡り合ったときに心のうちにうまれる「特別な感覚」の表現を助長しているのではないかと考えた。
 言葉に着目して楽器のルーツを調べていくうちに、楽器を「弾く」という言い回しのルーツが、手前に手を「引く」ようにして奏でる箏にあるということや、「斗・為・巾」の由来などを知り、言葉が文化の名残を継承していくということについて新たに関心を抱いたため、今後の課題とする。


【参考文献】

・日本楽器の源流―コト・フエ・ツヅミ・銅鐸―
 国立歴史民族博物館 編
 第一書房

・日本の伝統楽器 知られざるルーツとその魅力
若林 忠宏 著
ミネルヴァ書房

・大正琴の世界 金子敦子 著
 音楽之友社 大正琴協会

・なんてったって邦楽 おもしろ日本音楽
 釣谷真弓 著
 東京堂出版

・邦楽ジャーナル2004 Vol.206 三月号

・日本語大辞典
 小学館

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