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泉をみせてください Vol.1

’人間は誰でも心の底に しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは 話すとわかる
二言 三言で
それこそしいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖’

茨木のり子《みずうみ》



幼い頃の感覚を思い出そうとすると、もう記憶と白昼夢の区別がつかなくなってしまったものが多いことに気が付く。


「こころの内側に内緒の中庭をもつ」


小学校の図書館か、御伽話の空想か、どこで手にしたのかはもう覚えていないが、幼い頃にふとこの感覚を持って以来、ひとりでひっそりと庭の手入れに勤しんできた。

そのことを特段誰かに話すこともなく(必要もなく)、長い時間をかけて自分に馴染みきったその感覚を、わざわざ取り出して考えるということもほとんどなかった。

少し前に茨木のり子さんの言葉を読んで、ずっとすぐそこにあったこの感覚がとても新鮮に感じた。おなじようなことを考えている人間がいるのかと、安心感を得たのかもしれない。(実際のところは誰かと共有できないことがすこし寂しかったのかも)


よく空想をする子供だった。
目を閉じていても、遠近さまざまな辛辣さが勝手に自分の中に入ってくる。鼻から針を吸い込み、口から鉛を吐き出しているようだった

無視ができない性質を治すことはできずに、かわりにゆめの現実逃避がどんどん上手くなった。(宙を見上げる癖もついた)
こうして改めて言語化しようとすると、この’庭’を育てることは、その現実逃避のひとつだと雑に言いくるめてしまうこともできるのかもしれないが、それとはすこし違う類だと今の私は信じている。


庭について


気がつけば子供時代は遠い記憶になっていて、大した覚悟もないまま大人として扱われるようになったいまも、内側の庭の気候は少女時代と変わっていないし、そこで水やりをしている自分の姿も変わっていない

その庭にはみたことのない植物(きっと昔にぺらぺらと捲った図鑑か、祖母に連れて行ってもらった植物園の記憶の名残がイメージになっているのだと思う)や、色の混ざった絵の具の塊のような花が咲いている。(この花のイメージは新しくて、数年前に観たクリムトの点描画に触発されている)


《けしの野》1907年 ウィーン / ベルヴェデーレ宮

こんなふうに、わたしの’庭’は、わたしがこれまで拾い集めてきたいろいろな種類の「お気に入り」たちの記憶でできている。

こうして考えると、わたしが本を読むのも、学問をするのも、美術や舞台芸術の鑑賞をするのも、人の考えやイメージの話を聞くのが好きなのも、そしてそういうものをノートに書き綴って留めておく習慣も、この庭の景色を増やすためかもしれないと、書きながら納得している。

静かで穏やかな時が流れる、内側のやさしい空間のことを、私は庭と呼んでいる。



泉について



色とりどりの景色の奥に、碧い泉がみえる。
そこの水は澄んでいて、水底まで光をよく通すけど、移り変わる空模様を映したり、覗き込んだ自分の姿を映したりして、その度にいろんな色に見える。

この泉から、いつもいろいろなインスピレーションをもらっているし、感情や神経が峙ったときは、この水面が吸い取って沈めてくれるような気がする。(つらい現実との間にワンクッション挟んでくれるような)


茨木のり子さんの《みずうみ》を読んだ時、真っ先に思い浮かべたのがこののことだった。


わたしはいつも、この庭や泉のほとりでいろいろなことを考える。



▶︎ Vol.2 泉を持つこと




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