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水玉消防団ヒストリー第5回 1978年 早稲田・すぺーすJORA


取材・文◎吉岡洋美
協力◎松本路子写真事務所、竹田賢一、地引雄⼀

  「この4人なら面白いことができる」


 「まずは自分たちだけでやってみる」
これを起点にして、「やれない」と思っていたことも実際「やれる」と分かれば、新しい何かを始めることは恐くなくなる。魔女コンサートはじめ、そうした経験値が積み上がっていく天鼓、カムラたちに、ある物件の話が持ち上がったのは’77年末~’78年初頭頃のことだ。
 
天鼓「エスペラント語を普及させようというエスペラント学会(現・エスペラント協会)が新たに会館を建てて、『1階を誰かに貸したい』という話が私たちのずっと上の女の先輩で女性解放運動家の小西綾さんから巡り巡ってきたんです。普通に貸しても面白くないから、何か面白いことをやってくれそうな人に貸したいということで」
 それは早稲田のビル1階、20坪ほどの広さで、ちょっとしたイベントもやれそうだし、小さなカフェも併設できそうな空間。「ここを誰かに貸したい」というこの話に乗ったのが可夜、天鼓、そして、名古屋で女性たちの集う場「名古屋ウィメンズハウス」に運営参加したあと上京し、ホーキ星の常連になっていたまなこ・・・。さらに「天鼓に強力に誘われて(笑)」というカムラである。
 実はこの4人は、’77年の魔女コンサートのあと「女だけで家を建てよう」というホーキ星の運営メンバーの発案に参加し、実際千葉で3ヶ月かけて一軒家を建てたときの「気づいたらコアメンバー」(カムラ)だった。
天鼓「3ヶ月ぐらいずっと寝泊まりして一緒に家を建てる作業をするなか、この4人は好みもこだわりも経歴も全く違うのがすごく面白かった。それぞれ出来ることが違って、そこがいい。この4人だったら何か面白いことができると思っていたんですね。逆に皆が同じことしか出来ないのは面白くないわけで」

77年夏、「女たちの合宿所を女たちで建てよう」と、実際二階建ての一軒家が千葉に建てられ「風見鶏-SUN」と名付けられた(写真下左端にカムラ、二階左窓枠右上に天鼓、二階右端にまなこ、右から5人目に可夜)。「大工さんの男性がゲストで来てくれたけれど、基本は8〜10人ぐらいの女の人ばかりで土台から掘ってセメントを流し込むところから始めて、全部自分たちで建てた」(天鼓)[撮影:松本路子]

 タイミング的には’76年にオープンしたホーキ星が運営の難しさなどから終焉を迎えようとしている頃だった。
カムラ「『何か新たな場所をやりたい』と可夜さんは言ってて、でも、その早稲田の物件ではホーキ星とは違うことをやろうという考えだった。ホーキ星は女のコミュニティといういわば運動体のなかにあったけれど、早稲田の空間は家賃もそれなりに払わないといけないし、“女の…”ということではなく純粋にレンタル・フリースペースとして4人で共同ビジネスしよう、と。そんな考えだったんですよ」
 天鼓は「いやいや、ビジネスなんて誰も本気で考えてなかったと思うよ(笑)」と笑うが、既に京大を中退して東京でバイトと舞踏の練習に明け暮れていたカムラ曰く「最初は建前だけでも皆、『これで食っていこう!』という志はあったのよ。確かに、ビジネスセンスゼロの人間ばかりが集まってるのに(笑)」。
天鼓「誰一人そういうタイプじゃないから(笑)。でも、スペースの広さは結構あるし、ダンスのレッスン・スタジオやお芝居の稽古場なんかに貸して、それだけではお金にならないからカフェ的スペースも作って、と、割と場当たり的だけど4人で方針を考えたんです。開業資金は可夜さんと私が公的資金を300万ほど借りて、あとは友人たちからのご祝儀で。大体いつもお金を持ってないくせに、やりたいと思ったら始めちゃう。そして、やりたい気持ちが強ければ何とかなる、というのを身を持って体験し続けたのが私の人生かも。何かを『やりたい!』と思うこと自体がアドバンテージなわけだから」
 
 かくして、天鼓、カムラ、可夜、まなこの4人は1978年6月、早稲田駅からほど近いエスペラント会館1階に、フリースペース「すぺーすJORA」を誕生させる。

オープンから2年目の1980年、「JORA」のロゴを入れて作られたTシャツ。運営者4人の名前もプリントされている。


ゲイ、レズビアン、50代女性のレギュラー箱

 
「JORA」の由来は「女等」を音読みにして「ジョラ」。
 20坪のスペースは、奥にレンタルフリースペース、入り口にカフェバーを併設。既に一軒家をイチから建てた彼女たちだけに、「皆、家の建て方を知ったから、リフォーム一つにしてもやり方がわかるので恐れはなかった。木場の材木屋に直接交渉に行って、ずいぶん安く材料を売ってもらったり、端材や梱包材をただでもらったり」(天鼓)と、実際、約1ヶ月でフローリングの床から二重壁まで内装工事を全て自分たちでこなし、3年契約でスタート。そのオープン案内には「たとえば、JORAでやれること」として、「ミニコンサート、ダンス・バレエのけいこ、芝居のけいこ、作品展、講習会、講演会、ヨガ、整体、ミーティング、集会、パーティー、その他いろんなこと」と提案された。

「でも、結局は自分たちが好きなことや面白いと思うことばかりやってた」とカムラが言うように、70年代後半にして斬新で興味深いさまざまな人たちが、行き場を求めるようにJORAの空間を利用している。例えば、ゲイの先駆者、東郷健もその一人だ。
カムラ「ある日、JORAがオープンして間もない頃、東郷健さんから直接連絡があったんですよ。『私たち、ダンスパーティーをやりたいんだけど』って。で、かなり早い段階から月イチの夜、レギュラーで東郷さんたち主催のゲイパーティーを開催するようになった。今ならそういう場所もあるだろうけど、あの頃、ゲイの人たちだけでダンスが出来るような広さのクラブやパーティーの場はなかったんじゃないかな。2丁目のバーは狭いでしょ? だから月イチ、東郷さんはじめお姉様たちがJORAに集まってはダンスで盛り上がって、パフォーマンスなんかもしていたはず。あるとき『今日のパーティーには金魚が絶対必要なの。買うとこないの?』なんて、一体何に使うのか分からない非常にユニークな質問も飛びかい(笑)。パーティー自体には立ち入らないから、実際どんなことが行われたのかはあまり知らないけれど、皆さん月イチ、本当に興奮していて楽しそうだった」

 ●東郷健「ツブシタレ」

 
 ‘78年において「レズビアン・パーティーもレギュラーで行われていた」と、カムラ、天鼓も口を揃える。
カムラ「もともとレズビアンのグループはホーキ星にも深く関わっていたんですよ。で、彼女たちがパーティーをやりたいということになって、もちろん、その頃、レズビアンパーティーをやれるところなんてゲイ以上に見つからない。当時、彼女たちは本当に行くところがなかったと思う。だから、JORAで始めるようになった月イチのパーティーはやはり大盛り上がり。基本はダンスパーティーだったけれど、皆、それは解放されていたよね。なにしろ、レズビアンでいることを許してくれる場がどこにもなかった時代、同じ仲間同士で集まってお酒を飲んで踊れるのは、彼女たちにとって(JORAの)あのパーティーぐらいだったんじゃないかな。毎月、皆がハメを外し、私たちが酔っ払った方々をよく介抱してた(笑)」
天鼓「あの頃はLGBTとか認められてない時代ですからね。ゲイの人たち、レズビアンの人たちがパーティーしたくても貸してくれる場所がないわけです。JORAでは月に1日はそうした男の人だけ、女の人だけのパーティーがあって、そうすると20数畳くらいのスペースに100人ぐらいがスシ詰め状態。大騒ぎだった」
 因みに東郷健は、ホーキ星の女性たちに“ビッグシスター”として慕われていた近代文学研究者で女性学者でも知られた駒尺喜美と繋がりがあり、「東郷健さんは駒尺さんをとても尊敬していて、その関係でJORAを知ったんだと思う」とカムラは推測する。その駒尺もJORAでレギュラーパーティーを行っている。当時、53歳だった彼女は「50代の女たちが遊びに行くところがないから、ディスコパーティーをやりたい」と、毎月50代以上の独身女性たちが着飾って集い、踊るパーティー「ディスコぱーてぃどん」を小西綾と主催し、JORAをレギュラーヴェニューにしていた。そして、それはフリースペース経営を始めた4人に向けての粋なサポートでもあった。
カムラ「JORAを始めるとき、私たちはこれまでも何かあればアドバイスをもらっていた駒尺さん、小西綾さんが一緒に住む神楽坂の家に一番に相談に行ったんですよ。そうしたら『使用料前払い』ということでご祝儀を下さった。それで、駒尺さんと小西さんが50歳以上のダンスパーティーをJORAで企画したわけなんです。しかし、今思ってもあれは画期的なイベントだった。男の人はバーやスナックで一人でも遊べるけど、確かに中年以上の女性が一人で夜遊ぶ場所なんてなかったから。パーティー当日のために駒尺さんも普段は着ない『あんな服着てみたい、こんな服着たい』ってはしゃいでて、皆でおしゃれして集まっては、ミラーボール回して、お酒飲んで喋って踊って。ヨーロッパでもそういう企画があることはあるけれど、せいぜいここ10年ぐらいの話。それをあの頃、駒尺さんや小西さんがJORAで企画していたなんて。本当に画期的だったよね」
 

ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ


 天鼓は「当時、私にはオルタナティヴの音楽シーンの知識がなかったので、あくまでもスペースを貸す人、使う人の関係でしたけど、灰野敬二、土取利行、近藤等則等々……、今考えれば錚々たるメンバーがJORAに遊びに来たり演奏したりしていた」と思い起こす。
 その「錚々たるメンバー」がJORAに足を運ぶきっかけとなったのは、音楽家で音楽評論家でもある竹田賢一が主宰し、’79年からJORAで毎週月曜の午後2時から夕方5~6時まで行われていた即興ワークショップ「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」(以下ヴェッダ)である。
 イギリスの前衛音楽家、コーネリアス・カーデューが主宰したスクラッチ・オーケストラ*やNYのロフトジャズシーン**に誘発された竹田が、参加費500円で誰でも楽器なり、パフォーマンスなり各々の方法で即興に参加できると企画したワークショップ。といえども当時“ワークショップ”という言葉自体、聞き慣れない頃で、「即興、ワークショップの(双方含め)日本での先駆けだったんじゃないか」と、カムラは言う。



●Scratch Orchestra(1970.「Pilgrimage from Scattered Points」)

●Vedda Music Workshop(1981.@日大)

  もともとヴェッダは、’79年2月にフリーミュージックのライブスペースとして語り継がれる「吉祥寺マイナー」でスタートし、不定期開催していたのをJORAに場所を移し定期化となった。竹田曰く「(当時通っていた)野口体操のクラスでJORAを使ってダンスを教えていた女性やカムラと知り合った」ことがJORAを知るきっかけで、その頃、舞踏家・笠井叡のスタジオ「天使館」に通っていたカムラ自身も、時折、舞踏でヴェッダに参加していた。主な参加者は「素人も玄人もない」とカムラも言うように、「学生や実験音楽のファンが多く、プロのミュージシャンはほとんどいなかった」(竹田)という。そのなかには、エレクトリック大正琴を使う竹田をはじめ、サックスの白石民夫、二胡の向井千惠、クラリネットで参加したグラフィックアーティストの河原淳一らがいた。

●竹田賢一(2022.バースデーライブ)

●向井千惠(2010.ソロライブ)

●白石民夫(2015.路上ライブ)

 
カムラ「ライトを消して暗くした部屋に、常時5~6人ほどの参加者が到着した順に来ては、演奏する人もいれば、ただ寝っ転がっている人もいる。三々五々、参加者がしたいことをしたいときに始めて終わるという、ただそれだけ。それが私にはとても面白かった。竹田さんは、ヴェッダでは今でいうファシリテイターではあるけれど“ああしろ、こうしろ”と言うわけじゃない。何も制約しない。自由で放ったらかし。誰もが何をやってもいいし、どこに向かっているのかわからないままノイズが行き来する。向井さんの二胡の音なんて、“ここまで寂しくて侘しい音が出てきていいの?”って感じで(笑)。かと思えば、パフォーマンスの人が部屋中にトイレットペーパーを転がしたり。毎回3~4時間、皆、好き勝手なことをやって、アナーキーって感じ」
 音とダンス、パフォーマンスが交じる即興の試みは、今も様々に行われているが、そもそも即興的な舞踏を行っていたカムラにとって、こうした「(様々な表現が交じる)クロスメディアの即興はヴェッダで初めて体験したし、そういう面でもヴェッダは先駆けだった」と言う。
カムラ「誰がどういう方法で何をやってもいい。いわゆるジャズの枠を離れた即興という部分で、竹田さんがヴェッダで始めたことはパイオニア的なことだったんですよ。そうなると、確かに自由にやれる場所って意外と少ない。例えば、絵で即興に参加したい人がいても、音楽関連のハコだと機材があるから絵の具や水を持ち込めない。公共施設の美術室だと音楽は出来ない。ダンスの練習場はダンスはOKでも演奏はダメ、といった感じで。私たちの時代なら例えば、非常階段のように無茶苦茶やれなくもないけど、そうするとロックのライブハウスを借り切って、ということでそれもまた気軽にはやりづらい」
 竹田自身も「当時、他にはそういった(色のついていない)自由なスペースはなかった。(ヴェッダでは)現代音楽や即興、自作の楽器を演奏する人や学生等々、“変な音楽”をやりたい人たちが集まり、JORAでは皆が自由に発想できた。ワークショップとは別に時々ライブも開催して、それも安く借りられたのがありがたかった」と言う。
 天鼓も「竹田さんがJORAを使うようになってコンサートも行われるようになった」と言うように、例えば、小杉武久、土取利行、灰野敬二たちのライブが開催されている。
天鼓「JORAはパーティーがやれることも前提だったから、壁も窓も二重にしてたんですよ。でも、灰野敬二氏がライブをやったときは爆音すぎて、ご近所経由で警察から通報が入った(笑)。当時は『なんなの? この不気味な人にこの音は』って(笑)」
 

●灰野敬二「うまくできない」

 「ビジネスより、自分たちの楽しいものを優先させてしまった」(カムラ)結果、さまざまなマイノリティ、先鋭たちのエネルギーを生み出す場所にもなったJORA。4人の女性が共同経営する、そのスタイル自体に注目するメディアもいたという。
天鼓「テレビ東京だったかが取材に来て、JORAの経営者である私たちの30分のドキュメンタリー番組を作ったんです。今の『情熱大陸』みたいな感じの。あの当時、女ばかりで上下関係もなくリーダーもいない、そんな自由なつながりが形になっているのが珍しかったんだろうな」
 
 そして、そんな空間のなかで、最たるものが誕生する。それが運営者4人とその友人である5人の女性で生み出された「水玉消防団」である。
 次回は、いよいよ誕生する水玉消防団結成のいきさつを記録する。
 

 *スクラッチ・オーケストラ=’69年、イギリスの前衛音楽家、コーネリアス・カーデュー(1936-1981)によって創設された即興グループ。音楽の素養のない者でも演奏参加可能な非定型のスタイルをとり、集団即興の新しい形を追求した。
**NYのロフトジャズシーン=70年代を中心に、ミュージシャン自身がNYの空き倉庫などロフト・スペースを借りて運営するスタジオで始まった、前衛ジャズ音楽のコミュニティ、文化活動。

1981年の水玉消防団。左から可夜、まなこ、天鼓、カムラ、宮本SAN[撮影:地引雄一]

 ●天鼓 1979年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
 
◆天鼓、緊急出演決定!
12月21日(水)
「Doravideo(一楽儀光)バースディライブ」@秋葉原 Club Goodman
19:00 Open 19:30 Start
出演/Doravideo、ニーハオ、若林美保、天鼓
 
 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバームンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。

●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
 

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー



 

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