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水玉消防団ヒストリー第2回 カムラ 1955—1975

取材・構成◎吉岡洋美
協力◎松本路子写真事務所、地引雄一
 
 1976年、京大を休学し「カルチャーに触れたい」一心で上京したカムラが出会った新宿「ホーキ星」。ここで初めて「私が感じていたことをちゃんと話せる」と感激した彼女だが、では、それまでは何を感じて過ごしていたのか。60〜70年代半ば、地元福岡でロックと学生運動に憧れ、京都に進学した多感な少女期を時代とともに振り返ってもらった。
 

「自分から情報を集めないとロックを聴けなかった」


 
——水玉消防団のなかで結成時、唯一ロックを知っていたのがカムラさんと聞いてますが、ロックにはいつ頃から触れていたんでしょう。
 
カムラ「元をたどれば小さい頃、生まれ育った福岡の田舎の商店街から聞こえる、ある音楽が素晴らしかったんですよ。小学3年の頃だから1964年ぐらいだと思うけど、いつも流れてくるその曲が大好きで、でも小さかったから何の曲かわからない。後でわかったのはビートルズの『抱きしめたい』だったのね。なんせ、当時の日本の音楽のスターは島倉千代子にマヒナスターズ。60年代の日本はそういう歌謡曲ばかりがラジオで流れていた時代。だから、イギリスのああいうポップなコードでコーラスも入る曲調が、本当にモダンだったんですよ。そういうのが下地にあって、ラジオで週に一回だけの洋楽番組を聴くようになり、一番最初におこづかいで買ったレコードが中2のとき、ジェファーソン・エアプレインの『ホワイト・ラビット』。あのグレース・スリックの歌はすごいと思ってた。その頃からロックにのめりこんで、でも、クラスで洋楽を聴いてたのは私1人。女の子たちは皆、タイガースの『花の首飾り』とかを歌ってるわけ。まあ、いいんだけど、なんとなく混じれない自分がいて。当時は今と違ってそんなに簡単に海外のロックが聴けなかった時代。情報がなくて、田舎で本当に頑張って頑張って自分から情報を集めないとロックを聴けなかったんだよね」

●島倉千代子「花のワルツ」(1964)

●Beatles「抱きしめたい」(1964)

●Jefferson Airplane「White Rabbit」(1967)

 
カムラ「で、高校生になったら深夜ラジオでも洋楽、ロックをかける番組が増えはじめて、ブリティッシュロックが大好きになっていくんですよ。クリーム、ピンク・フロイド、ツェッペリン。当然、ギターを弾きたいと思うようになって、でも、どこから始めていいか分からない。クラシックギターでもやればいいのかな、と子どもながらに思って習うんだけど、1年かけて『エリーゼのために』をずっと弾くだけ。もう、すっごく難しくて、エリーゼのためにを弾くためにこんなことやってるわけじゃないのに、と思いながら(笑)」
 
——本当はロックを弾きたいのに(笑)。
 
カムラ「私はいつになったらエリーゼじゃなくツェッペリンを弾けるようになるのだろう、と(笑)。そんなもんで1年で挫折。小学校のとき、習い事のピアノも『バイエル』なんて、もう苦痛で苦痛で途中でやめたから“自分に音楽の才能はないんだ”という挫折感が大きかった。だから、その頃、音楽に対してはコンプレックスのかたまりだったんです」

●Pink Floyd「原子心母」(1971.Live 箱根アフロディーテ)

●Led Zeppelin「移民の歌」(1972. Live)

 
——でも、ロック少女は続いていたんですよね。
 
カムラ「もちろん。依然としてロックを聴くのは大好きでデヴィッド・ボウイに夢中になった高2の頃、町の本屋で創刊まもない『ロッキング・オン』を見つけるんですよ。確か2号目だったかな。当時はまだミニコミみたいな雑誌で、最初の方のページに載ってた岩谷宏のボウイやキング・クリムゾンの訳詞が、今までライナーノーツで読んだ訳詞と全然違ってとにかく秀逸だった。素晴らしく本質を捉えていて大感動。“私、こういう歌詞だからロック好きなんじゃん!”って、感動のあまり編集部の渋谷陽一さんに電話をかけたという(笑)。ものすごく長電話して電話代も高い時代だから、めちゃくちゃ家族に怒られて。そうしたら、高3の1973年にデヴィッド・ボウイがジギー・スターダストのセットで初来日して広島に来ることになったんですよ。当時、海外アーティストは大抵、西まで来ても大阪止まり。でもボウイは、広島が被曝した特別な場所ということで来たんだよね。当然、親に内緒でチケットを買って既成事実を作り『私、一人で行く』と言ったけれど、未成年だからおばちゃんが付いてきた(笑)。で、東京、大阪はソールドアウトなんだけど、広島はガラガラ。一階席は半分ぐらいしか埋まってなくて、せいぜい300人ぐらい。だから私は被り付きで観ることができて、それはよかったけれど、つまり、デヴィッド・ボウイのレベルでも全然マニアックな時代だったんだよね。それほどロックは本当に最先端の音楽で、だけど私はロックを好きなのに楽器も弾けない、音楽的に自分がロックを作ることは出来ない。それならロック評論家をやろうか、と漠然と思ってた」

●David Bowie「Ziggy Stardust」


 

ロックはもともと政治と結びついていた


 
——当時はロック自体、黎明期の頃ですが、「こういう歌詞だから好きなんじゃん」とロックを支持した真髄はどんなところでしたか。
 
カムラ「やっぱり、60〜70年代のロックは非常に政治的だったんですよ。というより、完全に政治と結びついてた。ヒッピー、ベトナム戦争、ウッドストック…ウッドストックは完全にベトナム反戦運動とくっついていたわけで、皆、あの頃のロックミュージシャンは、音楽やアートを通して社会変革が起きると信じていた。ロックを支持している私もその一人だったと思う。だって、当時ロックはラブソングなんか歌ってなかった。もちろん具体的なアジテーションとかするわけじゃないけど、そのあり方、表現しているもの自体が“変革”を目指していたんですよ。あの時代のロックをロンドンで生で見ていた同世代のイギリス人の男友達から聞いた話なんだけど、デヴィッド・ボウイが1972年にイギリスのTVの音楽番組で、ギターのミック・ロンソンに擦り寄ってゲイの表現を躊躇なくしたことが『ものすごく衝撃だった』と言うわけ。男が化粧して綺麗に着飾って、しかもゲイセクシャリティを提示する。それだけで、何だかんだ言わなくても政治的じゃない。その頃はイギリスでもまだゲイが存在しちゃいけない時代。それをTVの生放送で表現して当時のUKティーンエイジャーのロック少年少女たちが皆、ショックを受けた、と。そして、それは社会にとっても衝撃的だったと。そもそもロックミュージックにはそういうものがあったんだよ。皆、音楽が世の中を変えるものだと信じて、私もそれを信じていた。当時は、日本中の若い人たちも含めて『世の中を、世界を変える』って世界中がマジだったんですよ。ロックもその大きな歯車のなかのひとつで、だから私はロックが大好きだった」
 

●David Bowie「Starman」(1972.6.6『Top of the pops』)

●Jimi Hendrix「National Anthem U.S.A」(1969. Woodstock)


親戚中に反対された4年生大学


 
——「カムラは学生運動をしたかった人だから」と天鼓さんが言ってたんですよ。大学は京大ですよね。進学は運動を目指した部分もあったんですか?
 
カムラ「変えなきゃいけない、ということを政治的な切り口からいくとその頃は“学生運動”とかになるわけ。私は1955年生まれだから60年安保は知らないけれど、70年代になって安田講堂の東大紛争をTVで見てショックを受けたのが中学3年ぐらい。だから思春期は無意識にロックと運動への憧れを行き来してたと思うんだよね。でも、それより京大を目指したひとつの理由は、まず親元を出たかった。京大には一浪して1974年に入るんだけど、当時、女が4年生の大学に行くだけでも父親は大反対。親戚一同も反対」
 
——親戚一同、ですか。
 
カムラ「そう。まるまる女性差別の典型。特に九州は封建的な風土が強かったから“女が勉強してどうなる”と、ほとんどの身内に反対された。『4年生大学なら九州大学に行けばいいじゃないか』とも言われたんだけど、なにしろ私の実家は九大から歩いて5分(笑)。九大生になったら実家から通わざるを得ないわけで、私の『家を出たい』という目的と沿わない。じゃあ、九大よりも皆が納得する大学を持って来なきゃいけない。あの時代、シンプルなヒエラルキーでいくと東大がトップでその次が京大。その下に九大、北大あたりの旧帝国大学が並ぶ。つまり、親を納得させる選択肢が九大以外なら東大、京大ぐらいしかないわけですよ。で、東大は“体制側”で、京大はポーズかもしれないけど“反体制”という認識はされてたのね、学問の上でも。だから京大は面白そうだな、と」
 
——じゃあ一浪してでも確信犯的に?
 
カムラ「そういうこと。身内の皆が反対するなか、唯一母親だけが賛成してくれてサポートしてくれた。私の母は戦中派で、中学の頃に戦争になって教科書を塗りつぶさなきゃいけない体験があり、勉強はすごく好きだったのに女ということで大学にも行けなかった。そんな戦争と女性差別の時代、母には高等教育を受けられなかったという自分の人生の思いがある。だから、私を支持してくれたの。『やんなさい』と。で、浪人時代は机にへばりついて勉強しましたよ。後で水玉のメンバーに“勉強しすぎで畳が腐ったらしい”とからかわれるんだけど(笑)、でも、後で考えたら、あんなつまらない猛勉強をしたから頭がすごく悪くなったとも思う。まあ、それでも京都大学に入ったから私のひとつの目的は達して、学生運動の片鱗にも触れたわけです」
 

京大に残っていた学生運動の空気


 
——実際、学生運動に触れてどうでしたか?
 
カムラ「いやー、かなり失望したんですよ。大学に入ったのが74年であさま山荘事件が72年。既に運動はものすごくセクト化していて、東京の大学あたりではほとんど何もなくなっていた時期。そういう意味では京大は最後の砦だったのね。まず、入学式からしてメットを被った新左翼のセクトが総長の話を途中から乗っ取って式が成立しない。京大にはまだそんな空気があった。で、総長は追い出されてセクトの学生たちがマイクを取ってアジを始めるんだけど、それ自体に失望したんじゃないのよ。新入生の私たちに話をしながらも、何を言ってるんだかさっぱり分からない。悪いけど自分だけ悦に入ってるような感じで、音も悪くてただワワワワーとしか聞こえない。アジ演説もあの時代のある種のスタイルがあるんですよ。皆、そのスタイルで演説するんだけど、それ自体がおかしいよね。あんな紋切り型のスタイルで話すっていうのは、本当に誰かに伝えようとする人たちの話し方じゃない。しかも、自分の主張を天井向いて喋ってるんだから。いわゆるオルグに来る人も皆、同じ。私もクラスでトガって変なことを言うから、すぐ目をつけられて、それなりにアプローチされるわけよ。新左翼からも民青からも。で、新左翼の人に『ちょっと話したい』と言われて行くと、例のアジ演説みたいなのを一人でずーっとするわけ。目の前で。そして、言いたいことだけダーっと言って、ただ帰る。私だって質問とかあるじゃん。でも、話し合いじゃないんだよね。一方的に彼らの主張を聞かされて、それで私が仲間に入るか入らないかを決める。それって違う、と思った。で、民青は民青でもっと違う。『フォークダンスに来ませんか』って(笑)。『自分たちの政治的なところに入りませんか』と来ない。私はそういうまわりくどいことはいらないから、もっと単刀直入に主張や考えを聞かせてくれたらいいのに、『え? フォークダンスですか?』と(笑)。で、フォークダンスのあと、集まった皆とお茶して、そこでようやくモニャモニャモニャと話が始まる。突然主張するんじゃなくて、当たり障りのない入り口を作るわけ。要は新左翼の真逆をとっているんだよね。彼らには彼らで言い分があるとは思うけど、私はどっちも独善的だと思った。まあ、それは私の感想だけど、両方ともちょっと違う、何か私は入れないな、って気持ちだった」
 

「思想」より「生活」に根ざしていた寮運営


 
——では、学生運動には早々にがっかりしたわけですか。
 
カムラ「ある種ね。ところが、京大には学生寮がいくつかあって、“吉田寮”“熊野寮”といった寮は学生運動の巣窟と言われていたんですね。実際そうだったんだけど、私は“女子寮”に入ってたんですよ。京大の学生寮はどこも全て自主管理で、女子寮は民青がとってたんだけど、自分たちの生活の仕方をとにかく全部自分たちで話し合って決めるわけ。私にはそっちの方が本当に大きな学びだった。今思っても、民主主義のトレーニングみたいだったの。だって、若い頃ってそんな場所ないじゃん。例えば、親元にいたら親が権力を持っているわけで、私の生き方、住み方を管理する最終決定権は親に握られている。家や部屋を借りるとしても大家にお金を払うという契約で、自分の住み方を完全には決められない。得てして世の中のルールはそういうもの。でも、京大の寮は『私たちが住んでいるところなんだから、どう住むかは私たちで決める』というわけ。これまで、そういう状況にいたことがないから目から鱗だった。学生運動が佳境だった頃、例えば東大なんかでロックダウンして自分たちの学園祭を勝手にやったり、自主ゼミを作ったという話がある。自分たちの学びたいものを自分たちでオーガナイズして、自分たちでやっていく、と。当時叫ばれた“大学解体”のひとつの目的は、そういう学びの場を作るために『大学を解体しよう』という話でしょ。それが京大の寮では実現されていた。私は“これは、すごい”と思ったんですよ」
 

京⼤⼊学から3年後の1977年、22歳頃のカムラ。大学を休学して上京し、「ホーキ星」の常連に。天鼓、可夜同様、“女たちで家を建てる”誘いに参加したときの写真[撮影:松本路子]

——女子寮は何人ぐらいいたんですか。
 
カムラ「女子ばかりが35人。ちょっとだけ寮費を払うんだけど、バカみたいに安いんですよ。私がいた頃で300円(笑)。家賃がかからなければ1ヶ月1万円程度で暮らせる時代だったから、今で言えば300円は3000円ぐらいなのかな。それでもバカ安いよね。女子寮を執行している民青と私の立場や考えは違うけど、だからダメとも思わないし、女性たちはちゃんと議論できて立派な人たちが多かった。それで1回生の年末、普通なら3〜4回生がやる女子寮の委員会総選挙に1年生の仲間とチームを組んで立候補したんだよね。私が委員長で、あとは生活、文化とか担当の4人で。もうひとチーム立候補したのが4回生の女性が委員長の民青チーム。そして、僅差で私たちが選挙で選ばれたの。で、委員長を1年間やるんだけど、これがすごく面白かった。とことん自分たちで決めて自分たちでやる。風呂の担当はどうする? 掃除はどうする? 門限はどうする、または廃止する? そういう生活に根ざした活動なのよ。それにプラスして、時々、京都の市長選は応援するかどうするか、学費値上げをどうするか、という議題もあるけれど、他の学生運動みたいにあまり観念的なことがない」
 
——いきなり崇高なところからじゃなくて。
 
カムラ「そうそう(笑)。いきなり、日本帝国主義! 世界帝国主義! いや、日本に帝国主義はない! とか、ようわからん、そういう話をするんじゃなくて、『寮費300円から350円の値上げはやっぱりまずいだろう』って、そんな話なのよ。どう考えても私はそっちのほうが実感あったし、それだったらやれる。吉田寮、熊野寮にも行って話し合いをして、共闘できることは共闘したり。だから1年間、寮の運営ばかりやってた。学校にも行かないで」
 
——そうした女子ばかりの自主的な生活で、カムラさんのなかに改めて何か生まれたり実感したことはありましたか。
 
カムラ「どうだろう、そのときはあまり意識してなかったけど。でもね、今思っても確かにそこに男がいたら男が確実にリーダーシップを取っているよね。私は女子高出身なんですよ。高校のときも映画研究会を作ったり、体育祭の仮装行列を自分たちで考えてシナリオ書いて、織田信長と蘭丸のインモラルな、今で言うBL野外劇にしたり(笑)、本当に好き勝手なことを皆でやってた。女子高に行ったのは自分としては不本意だったんだけど、もし、男女共学だったら、結局男子が何やかんやでトップに立って仕切ってたと思う。でも、女子高も大学の女子寮も物理的に男子がいない。いないから、自分たちで全部やる。そして、やれたら自信になるじゃん。それは今思うとものすごく自分の解放に役立ってたと思うし、後にホーキ星で私が出会うことになるフェミニズム、ウーマンリブにも無意識に繋がっていたんだね」
 

1981年頃、水玉消防団の新宿ロフトのライブでのカムラ


1981年頃の天鼓(左)とカムラ(右)[撮影:地引雄一]

 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバームンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
 
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。


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