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北村早樹子のたのしい喫茶店 第25回「町屋 コーヒーハウスはまゆう」

文◎北村早樹子

 もう20年近く嗅いでいないのに、今も脳裏にこびりついて離れないにおいがある。
 みなさんは「西成おろし」という言葉をご存知だろうか。ご存知の方は殆どいないだろう。おそらくネットで検索しても出てこない。しかし、ある時期まで、あの区域で過ごしていた方なら、ピンと来るはずの、強烈なにおい。それが「西成おろし」である。
 あれはわたしがまだ大阪で高校生になったばかりの頃のはなし。毎日、だいたい2時間目、10時過ぎになるとどこからともなく獣を焦がしたような、糞尿を燻したようなにおいが、開け放たれた教室の窓から入ってきて、それは夏になるとより一層濃ゆくかおる。これなんのにおいやねん、と、誰かに聞きたいけど、わたしは当時クラスにひとりも友達がいなかった。しかしある日の体育の時間、校庭にみんなで集合して体育座りしていたときに、わたしと同じようにこのにおいが気になってしまったらしい男子生徒が、あっけらかんと言い放った。
「なんかめっちゃうんこのにおいせえへん? このぐらいの時間なったらいっつもうんこのにおいするねんけど」
 すると、生まれも育ちもこの周辺の地元っ子の男子生徒がシンプルに解説してくれた。
「この辺な、牛ばらして残った骨集めて燃やすとこあるからな、だいたい毎日この時間なったらな、骨燃やすからこんなにおいするんやで」
 わたしは中学までは大阪の北摂地区のわりと上品とされている片田舎で育って、高校のときに学区を越えて、大阪市内のゴッサム・シティのど真ん中にある高校に進学した。当時、この町はもう町全体がわりとずっとほのかにしょんべん臭くはあり、それはそこいらじゅうで野良犬ならぬ野良おっさんたちが立ちションしているからで、立ちションどころか座りグソをするおっさんもおり、道端に人糞が落ちているのも珍しくないような、そんな場所ではあった。だからまあ、なんとなく野良おっさんたちのうんこのにおいなんかな〜と思っていた。が、実はにおいの正体はうんこではなかった。
 動物の骨は、どこでも燃やしていいわけではなくって、肉屋からかき集められて決められた場所でのみ、燃やして良いことになっているらしい。その集積所が、わたしの通っていた高校の近くにあって、骨を燃やす時間帯になると、風向きの関係からわたしたちの高校の校舎に、もわあ〜んとうんこのようでうんこでないにおいがやってくるらしかった。
 このにおいの乗った風のことを、「西成おろし」と呼ぶらしい、と知ったのは、高校を卒業して、ライブハウスで偶然、同じ高校の先輩に出会ったときだ。六甲おろしに掛けて、「西成おろし」。よく出来た名称だと思う。
 モラル的にどうとかを恐れずに言わせていただきたいのだが、わたしにとって「西成おろし」は思い出のにおいであり、思春期の、全身が傷口になっているようなヒリヒリとしたあの感覚を呼び覚ましてくれる、大切な大切な、わたしの郷愁なのである。あのにおいから離れてもう20年近く経つのだが、叶うならもう一度あの「西成おろし」を全身に浴びて深呼吸したい。しかしここは東京。今もあの場所に「西成おろし」が吹いているのかは不明だが、この20年で驚くほど科学が進歩している昨今、それも東京で、あのにおいが嗅げる場所はもうないのだろう。
 そう淋しく思いながら過ごしていた。
 わたしは東京のディープタウンを巡る本や雑誌を読んだり、サイトを覗いたりするのがわりとライフワークなのだけど、その一環で、荒川区荒川8丁目のことを知った。
 牛の骨とはちょっと違うのだけど、ここ荒川区荒川8丁目には、お産のときに出てくる人間の胎盤を集積して燃やしている場所があるらしい。これは興味深い。ということで、数年前にわたしは実際に訪れてみた。
 そのときに、確かにふわっと吹いたのだ。
 「西成おろし」と同じにおいのする風が。
 その記憶を頼りに、久しぶりにまた、訪れてみた。
 町屋駅から徒歩15分。荒川自然公園という長閑な公園があって、子どもたちが夏場はプールで水浴びなんかしていて、わりと平和な場所ではないか、と思いながら、公園のスロープを降りると、急に景色が変わる。バラック小屋が犇く謎の区域は数年前と変わらずまだそこにあった。妙に静かでそれが逆に怖い。
 「日本胞衣衛生工場」と「大正胞衣社」という工場が隣り合っている。胞衣(えな)というのがまさに人間の胎盤のことである。胎盤もまた、燃やして良いところが限られていて、関東区域の胎盤は全てここに集められて燃やされるらしい、と何かで読んだ。しかし数年前もそうだったが、今回もまた残念ながら工場が動いている気配はなかった。
 ここら辺はどうやら小さな工場地帯のようで、周囲には皮工場や金属工場、印刷所などが集まっている。数年前はこの一帯をぐるぐる散歩しているときに、確かにあの「西成おろし」と同じにおいの風を感じたのだ。それも、諦めた頃に、急に、ふわっと、もわっと、吹いたのだ。
 また同じ風を感じられるだろうかと、周囲を30分ほどぐるぐる歩いた。工場も散在しているが、普通に小綺麗な戸建ての住宅も多く、また何故か老人ホームも多い。そしてこれだけ生活の息吹がちゃんとあるにも拘らず、コンビニ的なものが全くない。謎の区域である。
 歩き疲れたので再び町屋駅の方へ戻ってきた。すると駅前に程よい喫茶店があった。

「coffee houseはまゆう」
 店内に入ると、赤いビロードのソファーが出迎えてくれた。テーブルにはルーレット星占いのおもちゃが置いてある。そして灰皿だけならず、ライターまで置いてくれている。奥の席でおじいさんがおいしそうに煙草を吸いながら新聞を捲っている。喫煙者にやさしい喫茶店に悪い喫茶店はない。

 まだモーニングがやっていたので、朝ごはんをいただくことにした。なんとAセットからGセットまである。シーチキン好きのわたしは、Eセットのツナチーズトーストとゆで卵のセットを選択。ツナとチーズが乗ったトーストの上に、ほっそく辛子が垂らしてあり、ピリッとおとなの味だった。アイスコーヒーをちゅうちゅう吸いながら、窓の外を眺める。明るい日差しが差し込んでいる、穏やかな秋の日和。ふと我に返る。わたしは何を、「西成おろし」なんていう謎の風を探していたんだ。そんなもの、東京で吹くはずがないではないか。
 お会計をして外に出た。空は快晴、荒川の風は澄み渡り、街路樹の葉っぱをそよそよと揺らしていた。

今回のお店「コーヒーハウスはまゆう」

■住所:東京都荒川区荒川5―21―2 
■電話:03―3895―6666
■営業時間:月〜金 7時半から21時 土祝 7時半から17時 
■定休日:日曜日

■北村早樹子のたのしい喫茶店バックナンバー

撮影◎じゅんじゅん

北村早樹子

1985年大阪府生まれ。
高校生の頃より歌をつくって歌いはじめ、2006年にファーストアルバム『聴心器』をリリース。
以降、『おもかげ』『明るみ』『ガール・ウォーズ』『わたしのライオン』の5枚のオリジナルアルバムと、2015年にはヒット曲なんて一曲もないくせに『グレイテスト・ヒッツ』なるベストアルバムを堂々とリリース。
白石晃士監督『殺人ワークショップ』や木村文洋監督『へばの』『息衝く』など映画の主題歌を作ったり、杉作J太郎監督の10年がかりの映画『チョコレートデリンジャー』の劇伴音楽をつとめたりもする。
また課外活動として、雑誌にエッセイや小説などを寄稿する執筆活動をしたり、劇団SWANNYや劇団サンプルのお芝居に役者として参加したりもする。
うっかり何かの間違いでフジテレビ系『アウト×デラックス』に出演したり、現在はキンチョー社のトイレの消臭剤クリーンフローのテレビCMにちょこっと出演したりしている。
2017年3月、超特殊装丁の小説『裸の村』(円盤/リクロ舎)を飯田華子さんと共著で刊行。
2019年11月公開の平山秀幸監督の映画『閉鎖病棟―それぞれの朝―』(笑福亭鶴瓶主演)に出演。
2019年より、女優・タレントとしてはレトル http://letre.co.jp/ に所属。

■北村早樹子日記

北村さんのストレンジな日常を知ることができるブログ日記。当然、北村さんが訪れた喫茶店の事も書いてありますよ。

■北村早樹子最新情報

11月14日(火)北村早樹子ワンマン開催!

11月14日(月)
北村早樹子ワンマン第8回
場所:阿佐ヶ谷よるのひるね
時間:19時半開場19時45分開演
チャージ2000円+1D
ご予約の方はkatumelon@yahoo.co.jpまで、お名前、枚数、連絡先を明記の上、送信してください。
(完全予約制)


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