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#オリジナル連載小説
【連載小説】『晴子』6
金曜日。夜でもまだ人出が多い。心なしか、いつもより酔っ払いの数も多い気がする。暑さも相まって、そういううるさい連中の甲高い戯言を聞くと、苛立ちもひとしおだ。街も人もすっかり夏の装いになっていて、暖色の灯りがたっぷりと溢れている。大通りを曲がり、小さい路地に入ると、人通りは一気に減って、暴力的とも言える暑さは少しだけ緩む。
店に入ると、その音を聞きつけてか、カウンター席の端に座っていたあの人がす
【連載小説】『晴子』7
気が付いたら、リビングのソファーの上でクッションを抱いて眠っていた。
西日のまぶしさに目覚めた私は、ソファーのひじ掛けの所に背をもたれさせて、半分身体を起こした。テレビを見る気にもなれず、窓の外を見るともなく眺めた。夏の夕方は、まだまだ明るい。
飲食店の仕事は、休みの日が世間の休日と一致しないことも多い。今日も仕事は休みだが平日で、だから休みの日にただでさえ数少ない友人と会う約束を取り付ける
【連載小説】『晴子』10
Electric Light Orchestraが流れている。人が通り過ぎて、その都度微妙に空気が鈍く動くのを肌が感じ取る。音楽は多分、私の横にあるCDショップからだ。最近ではCDショップも経営が厳しいと聞くが、それでも何とか持ちこたえている店もあるのは、根強い音楽ファンと最近確立されたアイドルのビジネスモデルの賜物なのだろうか。私は経済には疎いから、どれだけ考えても正解にたどり着くことはなさそ
もっとみる【連載小説】『晴子』11
その日は日曜日で、休日でも起床時間はほとんど変わらない私だが、なぜか昼過ぎあたりで眠気に襲われた。いつも仕事をしている時は、こんな時間に眠くなったりしないのに。仕事中の緊張感が(あるとしても、もうすっかり慣れっこになっているだろうが)、本来であれば来るべき眠気を遠ざけていたのかもしれない。
日曜日が休日になるのは久々のことだった。休日の店はかき入れ時という事もあり、大概仕事に出ている。仕事がな
【連載小説】『晴子』12
大学の誰もいない教室で、気が付いたら机に突っ伏して眠っていた。イヤホンからはLOVE PSYCEDELICOが聴こえてくる。寝る前に聴いた覚えのある曲だから、アルバムを一周していたのだろう。
眠りに落ちる前は、誰もいなかったはずの教室は、もう半分くらい席が埋まっている。次の時間、授業で使うのかもしれない。俺は隣の席に置いてあった鞄を手に取り、他の場所に移動した。
次に俺が考えたことは、そもそ
【連載小説】『晴子』13
更衣室でため息をつく菖蒲ちゃんに声をかけたことがそもそもの失敗だった。
「えー、月島さんの恋人がこんな感じなんて、ちょっと意外です。」
菖蒲ちゃんの彼氏(現在名古屋に赴任中)が、月末に予定の空きを確保できないということ。いつもは月の最後の週末は食事に出かけることを約束していた二人だが、今月はそれが実現できそうにないということ。
「これ、悪く言うつもりはないんですけど、月島さんって、ちょっと男性
【連載小説】『晴子』14
寒くなったわけではないが、日中でも汗をかくことがすっかりなくなった。風が乾いていくのを日に日に感じる私の肌に今、窓から差し込んだ和らいだ日差しが落ちている。暖色の照明が落ち着いている喫茶店で、あの人を待っている。
秋の休日だが、それは私にとってそうなのであって、街やあの人にとっては平日だ。外を見ると、通りの行く人の顔は仕事中の顔で、街全体が緊張感に満ちている。まだ昼頃だから、当たり前と言えば当
【連載小説】『晴子』16
女?
電話の向こうから、女の声がした。いや、女と呼べるほどその声に色気もアンニュイも感じなかったから、女の子と呼んだ方が適切だろうか。けど、声が聞こえてすぐに電話は切れてしまった。それに、声が遠くて何を言っているのか、いまいち聞き取れなかった。
今夜は、なんとなく寝付けないでいた。外で雨がさらさらと降っているのが分かる。秋の真ん中で、鳴いていた虫も息を潜めつつある。どこかで、枯葉だろうか、軽
【連載小説】『晴子』17
どうして俺が今、島田と一緒にホテルのベッドで寝ているのかを説明することは、当事者にとってもかなり難しい。
井川を放置して、島田と一緒に駅に向かって歩いていた俺は、この上なくムシャクシャしていた。井川に散々振り回され、男女関係なく参加者には顰蹙を買われ、彼の友人(ということになっている)の俺と島田が忙しなく立ち回らなければならなかった。
雨?そうだ、雨だ。駅まで歩いている途中で、雨に降られたの
【連載小説】『晴子』19
Bill Evansの音楽は、私にとって理想の生活の比喩だと思う。
彼の音楽は、一つ一つ水滴を落とすように音が並べられていると思う。大胆さと繊細さ、すなわち伴奏とメロディーの対比ではなく、ポツリポツリとしたメロディーが曲全体を導いていくような。「神は細部に宿る」なんて格言を信じているわけではないが、繊細さが全てを構成していくような生活に憧れているのは誰の影響なのだろう。
あの人が教えてくれた
【連載小説】『晴子』20
Sonic Youthは、80年代のオルタナロックシーンを語るにおいて、やはり欠かすことはできない。彼らの登場はもはや事件と言っていい。ステージではパンク的精神を彷彿させるスタイルを貫く一方、LSDなどのドラッグによる幻覚の連想させるサイケデリックな世界観を体現している。サーストン・ムーアの過剰ともいえる歪みをのせたジャズマスターのサウンドは、シューゲイザーからの影響をうかがわせるが、シューゲイ
もっとみる【連載小説】『晴子』21
あの人にとって、名前は願いではなく記憶だったのだ。
それを聞いたとき、私は妙な納得と満足の感覚があった。あの人が私に付けた名前に、過不足がなく、私にピッタリな感じを受けたのは、その名前があの時あの人と出会った私と何もかもが等しかったからだ。名前とその時の私という存在が一切の均衡を保っていたからだ(ちなみに、例えば名前負けとかそういう類の現象は、この不均衡から生じるのだろう)。
仕事が終わった
【連載小説】『晴子』23
鶴田のことを思い出した。高校時代の同級生だった彼とは、よくつるんで遊んでいた。放課後を待たずに、昼休みを超えたあたりで仮病を使って学校を抜け出し、高校の近くにあった酒屋の自販機の前で集合した。
待ち合わせ場所に行くと、鶴田は自販機の前のベンチに座って缶のサイダーを飲んでいた。彼は俺を見て言った。
「今日は腹痛か?」
「残念。身体が怠い。」
仮病の時に、教師に何と言って抜け出してきたのかを当て
【連載小説】『晴子』24
「それは大変だったね。」
あの人は、バーのボックス席に前のめりに座ってホットウィスキーを舐めながら私の話を聞いていた。先日の菖蒲ちゃんの話だ。
結局あの日、あの人と会う予定だったが、菖蒲ちゃんの隣を離れるのが何となく憚られて、彼との予定を延期することにしたのだ。
「それで、僕との約束が流れたと。」
という彼の表情は、決して不機嫌ではない。
「ごめんね。でも、あのままだったら、あの娘、何しでか