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【連載小説】『晴子』17

 どうして俺が今、島田と一緒にホテルのベッドで寝ているのかを説明することは、当事者にとってもかなり難しい。
 井川を放置して、島田と一緒に駅に向かって歩いていた俺は、この上なくムシャクシャしていた。井川に散々振り回され、男女関係なく参加者には顰蹙を買われ、彼の友人(ということになっている)の俺と島田が忙しなく立ち回らなければならなかった。
 雨?そうだ、雨だ。駅まで歩いている途中で、雨に降られたのだ。破天荒な井川の尻拭いに終始した揚句、雨にまで降られたのだ。災難が立て続けに降りかかって、俺はいつになく不機嫌の極みにいた。今夜ばかりは、いかなる意味でも神なんかいやしないと思った。
 それで、雨をしのげる場所を探していたのだ。急いでいたが小走りだったのは、島田を置いていくわけにはいかなかったからだ。そして、建物の広い屋根付きのエントランスのような場所を見つけたから、そこに島田と二人で駆け込んだわけだ。雨宿りの場所を探す俺たち二人には、そこがラブホテルの前だということを一瞬で見抜く余裕などなかった。俺たちがそれを認めたのは、そこに到着して約5分後、中年のハゲ男と30代くらいの女という、事情を聞いていなければワケアリに見える(いや、事情を聞けば尚更その可能性もありそうな)組み合わせが、目を覆いたくなるほど欲望を駄々洩れにしたイチャつき具合で建物の中に入っていったのを見たからだ。
 島田との間に、気まずい雰囲気が流れる。おそらく彼女は今、俺のデリカシーを疑っている。本当に、今夜は神なんかいない。
「なんか、すごいとこ来ちゃったね。」
 釈明をすれば、恐らくもっと良くない方向に進みそうな気がした。できるだけ、なんでもないように振舞った。
 まるで俺たちを帰すまいとするかのように、雨は強く激しくなってきていた。
「あの。‥…?」
 島田が後ろで何かを言ったが、雨の音でほとんどかき消され、語尾のイントネーションから俺に何かを尋ねていることしか分からなかった。
「え、ごめん。なんて?」
 俺は聞き返した。島田は顔を赤くしていた。大体言いたいことは予測がついたので、察してやった。お嬢様にみなまで言わすのは気が引けた。
 そして今、俺と身体一つ分隔てて、島田は眠りこけている。やることはやった。そこにはもちろん情があるわけでもなかったし、これは意外なことに性欲もなかった。人間を性行為に駆り立てるのは性欲だというのは、恐らく間違っている。もしくは、間違っていないまでも、それはほんの一部でしかない。人が誰かと抱き合わずにいられないのは、何かから逃げたいからだ。今夜、俺を島田との予期せぬ逢瀬に駆り立てたのは、性欲ではなく現実逃避への欲望だった。
 俺が求めたのは島田ではないし、恐らく島田が求めたのも俺じゃない。これでも納得しない人達のために俗っぽい話をすれば、島田の身体は別に俺の欲情をそそるものではなかったし、島田はこれまで俺に異性としての魅力を感じている素振りを見せたことはなかった。
 俺と島田は、今夜何かから逃げようとしていた。でも、考えれば考えるほど、それを言葉で捕まえようとすればするほど、俺たちを追いかけているものの正体はその輪郭を曖昧にしていく。
 俺たちを、この隣の女の声がうっすら聞こえてくるほど壁の薄いラブホテルに追いやったのはなんだ?雨か?いや、それはあまりにも本質的じゃない。なら、井川か?まあ、雨よりはマシな言い訳だ。でも、マシな言い訳と言うだけで、それが核心を突いているとは到底思えない。
 すべらかな寝息をたてている島田の横で、俺の頭は混乱していた。なんで自分がここにいるのか、さっきまでイライラしていて、島田をここまで連れてきた自分と今の自分が果たして同じなのか。そもそも、それほど好きでもない男に抱かれた島田が、隣で幸せそうな顔をして寝ているのも意味が分からない。今俺の周りは、何もかもがチグハグで、秩序だったものが何一つなく、起こっているいくつもの出来事たちの間にあるはずのいかなる整合的な因果関係も断ち切られているように感じた。
 どうしていいか分からない。この変な色の照明が空々しいベッドの部屋の中で、俺は八方塞がりの状況に置かれているように感じた。この部屋から出ていく方法は知っていても、こののっぴきならない心情から逃げる方法は一向に分かりそうになかった。
 あの女。ふと頭をよぎったのは、いつも公衆電話から電話をかけるあの女の声だった。声を聴きたい。そう思った。それでどうなるかは分からなかった。でも、元からもう滅茶苦茶なのだ。声が聴きたくなった理由なんて、もう考えたくもなかったし、即時に答えがでていたとしても、それを直視したくなかった。
 ベッドサイドテーブルに置いてあったスマホを手に取った。携帯電話からかけるのは初めてのことだ。いつもはプッシュホンで押している番号を、タップした。
 コールが始まる。1回。2回。
 時間を確認していなかった。枕の近くにあるデジタル時計を見た。0時20分。もしかしたら、もう寝ているかもしれない。
 3回。4回。5回。
 6回目の途中で、電話がつながった。まだ、起きていた、あるいは、この電話が彼女を起こしたのだ。
「もしもし。」
 電話の向こうから声が聞こえてくる。もはや聞き慣れた声だ。最初は、あんなに刺激を求めた声なのに、安寧を求めるためにこの声に縋る日が来るとは思わなかった。
「もしもし。」
 2回目の呼びかけがあった。俺は黙った。これで女は電話の主が誰かを悟るだろう。この電話番号にかければ、俺は沈黙をもって名を名乗ることができる。
「こんな時間に珍しいわね。でも、今回は特別迷惑よ。寝ていたらどうするつもりだったのかしら。」
 でも、今日の俺はここから話を聞いていなかった。島田とヤった時のことを思い出していた。それは島田本人にまつわる何事かというよりは、彼女と寝ている時に俺の頭に浮かんだあるイメージについてだ。
 俺たちが放置してきた、井川のその後について。あの後、奴はどうなったのだろう。あの後、道端に倒れて動けなくなり、道行く人が彼を文字通り見下しながらその横を通り過ぎていく。あるいは、道行く人が、彼を踏みつけにしていく様子を想像してみた。みんな彼を踏みつけていく。まるで、初めから彼がコンクリートの地面と同化していて、というより、彼がコンクリートそのもので、周囲から井川悟としてはおろか、名もなき人間としてさえ認められていない様を。
「ねえ。」
 もっとひどい目に遭っているかもしれない。おっかない奴らに拾われて、どこか人目のつかないところで、始末されているかもしれない。もしくは、あえて人目に付く場所で、放置したまさにその場所で、可愛がりを受ける様を衆目に晒しているかもしれない。その場合、アイツの方から余計なことを言った可能性も高い。いずれにしても、地面に突っ伏したアイツは、その後大雨にさらされるわけだ。俺と島田をこんな場所に押しやった雨に。
「こうやって電話をくれるのは結構だけど、そろそろ名前くらい聞かせてくれてもいいんじゃないかしら。」
 そんな場面を考えていた。目の前の島田の裸体よりも、脳内のそのイメージに意識は集中した。そして、欲情によってではなく、そのイメージを猛烈に希求した俺の中の何かが、我を失わせていたことは確かだ。
「ていうか、今どこにいるの?いつもは公衆電話からじゃない?今日はお出かけ中なの?それとももう家に帰ってるの?」
 憎んでいる?恨んでいる?もしかして、怒っているのか?誰に?井川にか?まさか、馬鹿げてる…。
「ねえ」
 ふざけんなよ…。
「何?今、何か言った?」
 ハッとした。もしかして、最後の一言は口に出てしまっていたかもしれない。
「竹下さん?」
 何故だ。どうして俺の名前を知っているんだ。いや、違う。電話からの声じゃない。
 俺はスマホから耳を離して、後ろを振り返った。胸のあたりまでシーツで身体を覆う島田が、上半身を起こしてこちらを見ていた。
「え、何?」
 俺は、島田に気付かれないように電話を切った。

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