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【連載小説】『晴子』16

 女?
 電話の向こうから、女の声がした。いや、女と呼べるほどその声に色気もアンニュイも感じなかったから、女の子と呼んだ方が適切だろうか。けど、声が聞こえてすぐに電話は切れてしまった。それに、声が遠くて何を言っているのか、いまいち聞き取れなかった。
 今夜は、なんとなく寝付けないでいた。外で雨がさらさらと降っているのが分かる。秋の真ん中で、鳴いていた虫も息を潜めつつある。どこかで、枯葉だろうか、軽くて乾いた何かが落ちる音が聞こえた。延びていく夜の長さと冷涼に慣れていかなければいけない。
 今日の電話はいつものとは少し違った。目に見えて分かる違いは、スマホの画面に映った電話番号だ。いつもは画面に「公衆電話」と表示されるだけで番号が表示されないのが、今日は番号が表示された。仕事関係の電話かもしれないと電話に出たが、すぐにこんな時間に仕事の電話がくることはあり得ないと思い直した。
「もしもし。」
 電話の向こうは無言だった。
「もしもし。」
 2回目でも応答はなかった。これで、この電話はいつもの無言電話だと確信した。いつものように無言だったが、無音ではなかった。違和感をもった二つ目の理由はその音にあった。
 エアコンの音だろうか。連続した低い機械音が電話の向こうで小さくなっていた。風とか通り過ぎる車の音が聞こえる気配はない。相手が室内にいることは確からしかあった。なんとなく、電話の向こうに野外にはない閉塞感を感じたのだ。
「こんな時間に珍しいわね。でも、今回は特別迷惑よ。寝ていたらどうするつもりだったのかしら。」
 電話の向こうは相変わらず無言だ。この時はまだ向こうから返答が、なんなら発声のひとつさえ聞けるとは思っていなかった。
「ねえ。」
 気が付くと今度は、誘うような声が出ていた。人に何かをねだるときのような声が。
「こうやって電話をくれるのは結構だけど、そろそろ名前くらい聞かせてくれてもいいんじゃないかしら。」
 何も返ってこない。
「ていうか、今どこにいるの?いつもは公衆電話からじゃない?今日はお出かけ中なの?それとももう家に帰ってるの?」
 これだけ質問をしていると、あたかも自分が彼に一方的な興味を向けているように感じる。これまで私は、この無言電話の相手に自分のことを何も話したことはない。むしろ相手に質問をすることが多い。この一方通行がなんとなくフェアじゃない感じがして、それがいつも、あまり快くない。
 結局また今日もこの無言電話の主の手がかりを何一つ掴むことなく終わりそうだ。興味があるというほどのことでもないが、気になることは気になる。
「ねえ」
 次に何か語り掛けようとする声と、電話の向こうから声が聞こえたのがほぼ同時だった。
 私は一瞬身構えた。前から歩いてくる人と自分がお互いを避けようとして、お互いに左右同じ方向に避けようとしてしまった時のようだ。向こうからの返答を待ったが、それは期待できなさそうだった。
「何?今、何か言った?」
 こっちから問いかける。
「……さん?」
 電話の向こうから、屈託のなさそうな女の子の声が聞こえる。
「え、何?」
 と言うが早いか、電話が切れた。
 女の子。確かに女の子の声が聞こえた。声は若く、張りもあって、悪意とか邪心とは無縁そうな印象を受けた。これまでの電話も、あの女の子だったのだろうか。だとしたら、下着の色なんて聞いてくるわけがない。いや、仮に向こうが男だったとしても、これまでの無言電話から、それが私のセクシュアルな部分に興味があっての犯行ではないことは明らかだ。
 ——だとしたら。私は考える。だとしたら、この犯行は一体、何が目的なのだろうか。下着の色にも、私の嫌悪感を喚起することにも、私の身の上にもおそらく興味がない。だとしたら何が知りたいのだろう。
 私も、無言電話の主に質問をするけど、向こう側の身の上に(もちろん下着の色にも)興味があるわけではない。でもその無言電話を、その気まぐれな訪問客を、そこはかとなく楽しんでいるのはなぜなんだろう。
 それにしても、電話の主はあの女の子なのだろか?でも、声が電話口からは遠い気がした。もしかして、あの子の声は、電話の主が一緒にいる誰かの声だった可能性もある。そもそも、今日の電話はどこからのものだったのか。周囲がどれだけ静かでも、屋内と屋外ではやはり空気の揺らぎが違う。今日の電話は明らかに室内からだった。電話番号も表示された。でも、こうしたいつもの電話との違いが、何を意味するのか、あるいは何も意味することはないのかは分からなかった。
 こうして、ただでさえ眠れない夜は、もっと眠れない夜になっていった。

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