マガジンのカバー画像

【連載小説】『晴子』

33
全33本
運営しているクリエイター

#オリジナル小説

【連載小説】『晴子』2

【連載小説】『晴子』2

「その傷、どうしたんだい?」
 ベッドの上であの人は、私の右手の傷を見つけて、そう聞いた。
「大したことないの。料理の時、ちょっと手が滑ったの。」
 嘘にしては、あまりにもどうでもよすぎる。本当のことを言っても、大して結果は変わらなかっただろう。
「気を付けなきゃダメだよ。」
 あの人は、私の右手をとって、傷のあたりを少し強く吸った。その感触が少しくすぐったかった。
「ダメだ。」
 口を離してあの

もっとみる
【連載小説】『晴子』7

【連載小説】『晴子』7

 気が付いたら、リビングのソファーの上でクッションを抱いて眠っていた。
 西日のまぶしさに目覚めた私は、ソファーのひじ掛けの所に背をもたれさせて、半分身体を起こした。テレビを見る気にもなれず、窓の外を見るともなく眺めた。夏の夕方は、まだまだ明るい。
 飲食店の仕事は、休みの日が世間の休日と一致しないことも多い。今日も仕事は休みだが平日で、だから休みの日にただでさえ数少ない友人と会う約束を取り付ける

もっとみる
【連載小説】『晴子』9

【連載小説】『晴子』9

 片方のイヤホンからFacesを流しながら、俺は森彩也子の話を聞き流している。——ああ。はい。ええ。そうですね。そうなんですか?大体この手の返事をルーティンしておけば(そしてたまにオウム返しを挟めば)、何となく満足して帰っていく人間が大半だ。あとは、相手が満足に至るまでどれだけの時間を要するかが問題になる。だから今俺は、いつになったらイヤホンを両耳に差して、ちゃんとFacesを聴けるのだろうかとい

もっとみる
【連載小説】『晴子』10

【連載小説】『晴子』10

 Electric Light Orchestraが流れている。人が通り過ぎて、その都度微妙に空気が鈍く動くのを肌が感じ取る。音楽は多分、私の横にあるCDショップからだ。最近ではCDショップも経営が厳しいと聞くが、それでも何とか持ちこたえている店もあるのは、根強い音楽ファンと最近確立されたアイドルのビジネスモデルの賜物なのだろうか。私は経済には疎いから、どれだけ考えても正解にたどり着くことはなさそ

もっとみる
【連載小説】『晴子』11

【連載小説】『晴子』11

 その日は日曜日で、休日でも起床時間はほとんど変わらない私だが、なぜか昼過ぎあたりで眠気に襲われた。いつも仕事をしている時は、こんな時間に眠くなったりしないのに。仕事中の緊張感が(あるとしても、もうすっかり慣れっこになっているだろうが)、本来であれば来るべき眠気を遠ざけていたのかもしれない。
 日曜日が休日になるのは久々のことだった。休日の店はかき入れ時という事もあり、大概仕事に出ている。仕事がな

もっとみる
【連載小説】『晴子』14

【連載小説】『晴子』14

 寒くなったわけではないが、日中でも汗をかくことがすっかりなくなった。風が乾いていくのを日に日に感じる私の肌に今、窓から差し込んだ和らいだ日差しが落ちている。暖色の照明が落ち着いている喫茶店で、あの人を待っている。
 秋の休日だが、それは私にとってそうなのであって、街やあの人にとっては平日だ。外を見ると、通りの行く人の顔は仕事中の顔で、街全体が緊張感に満ちている。まだ昼頃だから、当たり前と言えば当

もっとみる
【連載小説】『晴子』15

【連載小説】『晴子』15

 俺と島田は、一緒に帰路につくことになった。
 結局、井川の野郎は今回の合コンでも散々だった。そもそも、合コンの幹事として遅刻してくるなんて最低だ。開始時間が遅れたことで、女の子側の幹事が心なしかイライラしていたし、そのせいで雰囲気も初っ端から台無しだった。
 井川が無神経を身に纏って到着した時には、一瞬だけ空気がピリついた。それだけならまだしも、井川自身はその空気を全く察することができないでいた

もっとみる
【連載小説】『晴子』16

【連載小説】『晴子』16

 女?
 電話の向こうから、女の声がした。いや、女と呼べるほどその声に色気もアンニュイも感じなかったから、女の子と呼んだ方が適切だろうか。けど、声が聞こえてすぐに電話は切れてしまった。それに、声が遠くて何を言っているのか、いまいち聞き取れなかった。
 今夜は、なんとなく寝付けないでいた。外で雨がさらさらと降っているのが分かる。秋の真ん中で、鳴いていた虫も息を潜めつつある。どこかで、枯葉だろうか、軽

もっとみる
【連載小説】『晴子』17

【連載小説】『晴子』17

 どうして俺が今、島田と一緒にホテルのベッドで寝ているのかを説明することは、当事者にとってもかなり難しい。
 井川を放置して、島田と一緒に駅に向かって歩いていた俺は、この上なくムシャクシャしていた。井川に散々振り回され、男女関係なく参加者には顰蹙を買われ、彼の友人(ということになっている)の俺と島田が忙しなく立ち回らなければならなかった。
 雨?そうだ、雨だ。駅まで歩いている途中で、雨に降られたの

もっとみる
【連載小説】『晴子』18

【連載小説】『晴子』18

 あの人と、久々に夜を共にすることができた。季節は出会った頃と同じような冬になっていた。今年の冬は本当に寒く、むき出しの皮膚が鋭利な何かで引っかかれるような寒さだった。これで雪が降らないのは驚きだ。昼夜を問わずベッドから出づらい。特に今の私の場合は、あの人の腕に抱かれているからなおさらだ。
「ねえ。」
 あの人に話しかける。お互いに重く、鈍いまどろみの中にいた。
「何?」
「聞きたいことがあるの。

もっとみる
【連載小説】『晴子』19

【連載小説】『晴子』19

 Bill Evansの音楽は、私にとって理想の生活の比喩だと思う。
 彼の音楽は、一つ一つ水滴を落とすように音が並べられていると思う。大胆さと繊細さ、すなわち伴奏とメロディーの対比ではなく、ポツリポツリとしたメロディーが曲全体を導いていくような。「神は細部に宿る」なんて格言を信じているわけではないが、繊細さが全てを構成していくような生活に憧れているのは誰の影響なのだろう。
 あの人が教えてくれた

もっとみる
【連載小説】『晴子』20

【連載小説】『晴子』20

 Sonic Youthは、80年代のオルタナロックシーンを語るにおいて、やはり欠かすことはできない。彼らの登場はもはや事件と言っていい。ステージではパンク的精神を彷彿させるスタイルを貫く一方、LSDなどのドラッグによる幻覚の連想させるサイケデリックな世界観を体現している。サーストン・ムーアの過剰ともいえる歪みをのせたジャズマスターのサウンドは、シューゲイザーからの影響をうかがわせるが、シューゲイ

もっとみる
【連載小説】『晴子』21

【連載小説】『晴子』21

 あの人にとって、名前は願いではなく記憶だったのだ。
 それを聞いたとき、私は妙な納得と満足の感覚があった。あの人が私に付けた名前に、過不足がなく、私にピッタリな感じを受けたのは、その名前があの時あの人と出会った私と何もかもが等しかったからだ。名前とその時の私という存在が一切の均衡を保っていたからだ(ちなみに、例えば名前負けとかそういう類の現象は、この不均衡から生じるのだろう)。
 仕事が終わった

もっとみる
【連載小説】『晴子』22

【連載小説】『晴子』22

 4番卓に生ビール4つ、ハイボール2つ。17番卓に串カツ3種盛り二人前、24番卓が会計を済ましたから、空き次第新規の客を通す。
 頭の中で記憶した情報を忘れないように高速で反復しながら、キッチンの方へ戻る。キッチンからの料理を待つホール担当のバイト2人が待機している。
「4番卓に生4つとハイボール2つお願い。あと、24番卓が会計済ましたから、あの人ら帰り次第即片付けて新規通しちゃって。」
 ハンデ

もっとみる