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不在の在

「不在」という存在感があるよね、というお話です。

「存在していた」という過去の事実があるからこそ、「不在」は感じられるのであって、
最初から存在しなかったものの不在は感じることはできません。

もちろん自分が認知していないだけで、確かにいろんなものが存在しているはずです。

世間的には無数の認知しきれない存在があり続け、生まれ続け、無くなり続けます。

しかし、こと存在「感」となると、そこに確かにあるはずの無数の存在を、確かな感触をもって掴むことは難しくなってきます。

「不在」もそれと同じで、それを感じるためには一定の相互関係が必要になってきます。

僕の塾講師という仕事の中では、それを強烈に感じることがあります。

春は出会いと別れの季節と言いますね。

大人になってみると、人事異動や就職と転職こそあれ、学年が変わったり、入学や卒業、クラス替えなどと言った、
否応なしに待ち受けている受動的なイベントはありませんね。

こと学生となると、毎年そういったイベントを良くも悪くも乗り越えていくわけで、塾講師をしているとその空気に間接的であれ触れることになります。

無事志望校に受かって卒業していく生徒。
不安と希望の入り混じった表情でやってくる新しい生徒たち。

多様な心模様を垣間見ることができるこの季節ですが、
今日の「不在の在」に関しては「卒業」にフォーカスすることになります。

口語体で表現すると
「ああ、あの子はもう来ないんだなあ」
といったものになるこの「不在の在」。

これを感じるには一定の条件があると思っています。
2、3回授業をして来なくなった生徒や、入学から卒業まで来てくれていた子でも心をあまり開くことのなかった生徒に関しては、
「不在の在」を感じることはありません。

数値的な基準は無いのですが、そこにはある程度の期間とコミュニケーションの履歴が必要だと思っています。

ラポール形成を経て、ある程度心を通わせた履歴がなければ、
2人の間、そして「いつもの空間」に存在感は生まれず、
したがって「不在の在」も生まれることが無いということになります。

文明がこれからいかに進歩しようとも、科学的にはきっと未来永劫証明することができないであろう「存在感」ということについて今日は考えてみました。

あなたの今年の4月は「不在の在」を感じる月になりましたでしょうか。

コンクリがまだ固まっていない時に付けてしまった足跡のように、あなたの心にはそれがあるでしょうか。

小野トロ

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