見出し画像

悶ベル 悶々として動けない時に脳内に鳴り響くベル

悶ベル。
あの有名なアウトドア・登山用品メーカーではありません。

こうしたいけどできない。
どうすればいいか迷って動けない。

悶々とした状態でアラートのベルが鳴っている状態のことを言います(僕だけ)。

具体的にどんな時にこの悶ベルが僕の脳内に鳴り響くかと言いますと、
駅の券売機でキョロキョロして困り顔をしている観光客らしき人がいるのに、
自分の乗る電車の発射時刻が迫っている、
といった時です。

声をかけたい。
でもそうすると僕が乗り遅れる。

1本遅らせるなんてことはできない。
ああ、どうしてこんな時に余裕を持って駅に着くように準備して家を出なかったのか。

このようにして、結局その人をスルーして電車に揺られている最中でも、
悶ベルは鳴り続けます。

悶ベルが鳴る時は、往々にして自分の都合と困っている他者を助けたい気持ちを天秤にかけて、
結果的に自分の都合を優先せざるを得ない時だったりします。

利他なんて言うは易しですが、
簡単にはできないことだとその度思い知らされます。

先日、まさに悶ベルが盛大に鳴り響いた出来事がありました。
しかも2度も。そして同じ電車の車内で。

まずは1つ目。
僕は基本的に電車では座りません。
席を譲るのが照れ臭いし、偽善っぽい感じになるのが嫌なので、
だったら最初から立っておいて自分の分を空けておいてやれ、という考え方です。

こうすればお礼を言われて有難がられることもないので気持ちは楽です。

「ありがとう」は大事な言葉ですが、
言われると重荷に感じることもあります。

そんな「電車では座らない」という自分ルールを持っている僕ですが、
疲れた時には乗客の少ない普通電車に乗り、
立っている人がいなければ座ります。

今日はそんな日で、始点から席を確保し電車に揺られていました。

すると予想外ににわかに混み出す電車。

横に座るおばあさん。
その目の前には旦那さんと思われるおじいさん。

即座に立ち上がり、席を譲ろうとしましたが、
それを見て僕の肩を持ち制止するおじいさん。
「ええよええよ。」と言って譲ることを断られました。

ここから僕の悶ベルが鳴り出しました。

席を譲るということは、その人を「高齢者」という枠にはめることにもなりますし、
妊婦さんや障がいをもった方なども、
譲られたその時点で「弱者認定」されたと判断し、憤る人もいるでしょう。

こうしたこともあるので、
僕は日頃電車では座らないのですが、
たまに座った今日に限っておじいさんが立っていて、しかも譲るのを断られるとは…。

その問答があった直後、僕の頭の中にはこんな考えが浮かんできました。

「お年寄りだから譲ったのではなくて、複数人で乗ってきて1人だけ座れないという状況だったから譲ったのだ」
という風に言えば良かったのでは…?

というものです。

実際に以前、若いカップルの彼氏さんだけが立っていて僕の横に彼女さんが座っている時に、
席を譲って彼氏さんに座ってもらったことがありました。

それを応用して、「高齢者だから」ではなく、
「夫婦だから」という理由で座ってもらう。

こうすればおじいさんに座ってもらえるし、
僕の悶ベルは鳴り止むはず。

しかし、ここでまたもう1つ問題が浮上します。

一度席を譲ることを断わられ、それで一段落して落ち着いたのに、
また話をいきなり切り出して説明して座ってもらうことに相当な勇気が必要だと気づいたのです。

「ええよええよ」と断わられた時に即座に先程の考えを言えれば良かったですが、
断られたことによって怯んでしまい、座り直してしまったことで、
新たに話を切り出すことが難しくなってしまったのです。

そうやって悶々としている間に、いくつかの駅を通過し、おじいさんは席を確保することができました。

ああ、またやってしまった。
悶ベルが鳴り止むのはいつも、その出来事がもう僕の手に終える範囲から離れてしまった時なのです。

正確に言うと、出来事が終わってもしばらくは強い後悔が残り、
どうして勇気を出して話しかけなかったのかと自責の念に苛まれ、
悶ベルはしばらく鳴り続けます。

さて、同じ車内で2つの出来事があったと言いましたが、
もう1つはまだ1回目の悶ベルが鳴っている間に起こりました。

車内で立っている女性が、スタバの紙袋を床に置いて乗車していました。
電車が駅で停車しようとブレーキをかけた瞬間、
その紙袋が倒れました。
すると、なんとその紙袋にはスタバのコーヒーあるいはフラペチーノのようなものが入っていて、

床にコーヒーらしき液体が…
要するに電車の床にコーヒーがぶち撒けられたのです。

人が2人立てるくらいの範囲にコーヒーが広がり、あろうことか電車の傾きによって反対サイドや座っている乗客の足元まで液体が…。

慌てる女性。
避けて席を移る乗客。

当初は慌てていた女性も、自分の足や荷物は被害を受けず、手も汚れなかったからか、
すぐに落ち着きを取り戻し、何事も無かったように振る舞っていました。

しかし、床にぶち撒けられたコーヒーはそのままです。

え、待てよ…この人このままにして降りるつもりか…?

それでも、ティッシュやタオルを持っていなければどうすることもできませんよね。

周りの乗客も避けたりチラチラ視線を送るだけで、
手を貸そうとする人はいません。

僕はリュックの中のポーチを開けました。
ポケットティッシュが入っていました。

声をかけて、
「これ、全部使ってもいいので、どうぞ」
とティッシュを渡そうと思いました。

はい。
ここで2回目の悶ベルです。

もしここで僕にティッシュを渡されたら
「はい、お前これで床ふけよな」
と言われているように感じるのでは?
押し付けられているように感じるのでは?

では一緒に協力してふくのは?
それもおかしいか?

次の駅で続々と乗ってくる人たち。
え、何これ、なんかこぼれてる…。

もとから乗っていて一部始終を知っている人。
知らずに乗って避けていく人。

ああ、どうすれば全員が気持ちよく乗車できるのか…。
そして何よりも僕自身が気持ちよく今日を過ごせるのか…。

悶ベルを鳴り止ませるには行動を起こすしかないのですが、
起こしたその行動によってまた鳴り出すことだってあります。

そうこうしている内にその女性は何食わぬ顔で颯爽と(少なくとも僕にはそう見えました)降りていきました。

よくあれだけぶち撒けておいて平気な顔をして降りていけるな…
とも思いますが、拭くものが無ければどうしようもないのも事実です。

僕はティッシュを持っていたのに。
もしかしたら充分な量ではなかったかもしれませんが、
僕が最初の行動を起こすことによって、
触発されて行動しやすくなった周りの人たちがティッシュをくれたかもしれません。

ああ、何故すぐに行動を起こせなかったのか…
そうこうしている内に、当事者不在のまま新たに乗ってくる人たち。

何が起こったのか知る術もなく液体を避けていく人たち。
もはやコーヒーもスタバも見る影はなく、
新しく乗ってくる人からしたらただの不気味な液体です。

女性がコーヒーをこぼした瞬間を僕と一緒に目撃した人もまだ乗っていました。
しかし誰も行動は起こしません。

僕みたいに悶々としていた人はいたのでしょうか。
当たり前の日常の光景の一部としか思わなかったでしょうか。
その時は見ていたけれどその後寝ている人もいました。

「そういうのは車掌さんたちの仕事だから」
という意見もあるかもしれません。

国や文化によっては
「清掃する人の仕事を奪ってはダメ」とする考え方もあるでしょう。

それでも、何の衒いもなくティッシュを差し出せていれば…。

電車の揺れで広がった液体も、溢したその地点だけに収まっていたかもしれない。

後先考えずに
「今から自分がしようとしている行いは果たして善なのか?」
などと考えずに

即座に行動ができたらいいのに、と思ってしまいます。

即座に行動しても、
「自分がしたことは果たして…」
と同じことを考えてしまうかもしれませんが、

何もしなければ、同じように我関せずで電車に乗っていた人と何も変わりません。
悶々としていたなんて誰も知るわけもないからです。

結局は、こうした悶々体験の次に来る強い後悔を次への原動力に変えて、
行動に移していくしかないのでしょうか。

それでも、全く同じ人に挽回のチャンスを貰えるわけではないから…などと
ウジウジ考えてしまいます。

僕はそんな人間なのです。
考えすぎてしんどいこともありますが、
それが思考の深みを生み出すと信じたいなあ。笑

今日はそんな「悶ベル」のお話でした。
僕はこんな毎日を送っています。
という切り取りでした。

小野トロ

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?