タルコフスキーの「ノスタルジア」
タルコフスキーの映画が大好きだったのは16歳の頃だった。
彼の作品では「ストーカー」「鏡」「惑星ソラリス」が大好きで繰り返し何度も何度も観ては、途中で眠りこけたりした。たくさん作品を観たはずなのに、「ノスタルジア」は印象になかった。早送りして済ませてしまったんだろうか。
まだ子供だったので、映像美やポエティカルなものよりストーリー性があるもの、もしくは深遠さや謎めいたものが好きだった。まだ、でこぼこのすくない感性は、「ノスタルジア」は、タルコフスキー作品のなかではライトなものとしてとらえてしまったんだろうか。夜空に輝くすばるをひとつひとつ数えられた狩猟民なみの視力、細かいところまではっきりとみえて、色彩も陰影もきめ細かく感じることができたせいで、そのときは簡単にみることができた色彩の陽よりも、陰のグラデーションに注目しすぎていたかもしれない。
当時、ペレストロイカがはじまり、INF調印による核軍縮の流れやチェルノブイリ原発事故によってソ連崩壊の綻びは見え始めていたものの、WW2後にアメリカの支配下で反共の砦、極東前線緩衝地帯となった日本に生まれた私にとって、キリル文字やソ連の文化はまだまだ謎めいたものだった。
いま観ると「ノスタルジア」の映像美に、改めて畏敬の念を抱く。
「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」にあらわれた、したたり落ちる水、鏡、母へのセピア色の郷愁といったイメージがこの作品でも登場する。
私自身が旅に出るとき、水辺でぼんやりと佇み、いつまでもこうしていたいと思うような状況、それはタルコフスキーの映画の「水」のある場面のような状況を求めているのではないだろうか、と「ノスタルジア」の水のしたたりを見ていて気づいた。したたり落ちる水;それは生命の根源、母のしたたり落ちる母乳、いのちの源。日本のような水資源の豊富な国よりも、生命と貴重な水をつなぐイメージがヨーロッパやロシアではより強いかもしれない。「ストーカー」のように、誰かの足跡を、願いを辿る、何か目的があったように思えて、いつの間にかその目的を見失い、気がついたらどこかしらを彷徨っている。それは夢や現実の人生そのもののようだ。
冒頭の教会にて
ドミニクの演説
祈り
ドミニクの演説について、誰かが何かを語り、そのいずれか一つの正解というものは無いだろう。ただ、それを見た人が感じたこと、それは真実のひとつだ。そして、私がこの言葉を聞いて思い出したことは、人間は物質としては水と火といくばくかの骨と灰の存在、ということだ。ここに発生する意志は神の恩寵のようなもので、神という名の世界・宇宙の一部分、広げられた無限に広いシーツの凸凹の一部分なのだ。まさに「重要なのは完成ではない 願いを持続すること」で、これだけが世界を回し神を成す。願い続けること、祈り、それだけが、ただの水・火・灰でなくするシーツを揺らし、生命を息吹く風を起こす。
原点回帰といっても、どこに戻ればいいのか?狩猟採集時代?りんごをかじる前?農耕がはじまる前?
これも正解は無いし、そもそも時間軸だけの話ではない。
けれど、アーミッシュやイスラムに沿った生活、江戸時代までぐらいの生活が人が世界、神と乖離せずに生きていけるギリギリのところのようには思う。「神が死ぬ」前の世界。それが良いと賛美しているわけではない。
ロケ地
温泉のある村はバーニョ・ヴィニョーニ 古都シエナ トスカーナ, Italy Romaとの間とのこと。
ロケ地をまとめておられたページはこちら。
https://www.jimcom.net/nostalghia/
音楽
『ノスタルジア』で使われているのはヴェルディのレクイエム。
モーツァルトのレクイエムは好きでよく聴いてたんだけど、ヴェルディやフォーレも聴こうかな。『ノスタルジア』から数年でタルコフスキーが死んでしまう。
深い悲しみを湛えた心の襞にレクイエムは、天使の羽根のように寄り添い、癒してくれる。
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