[理系による「文学」考察] 井伏鱒二"山椒魚"(1929) ➡描きたかったのは、蛙みたいな友人がほしいな~、のつぶやき私小説

妻からのリクエストで考察します。
[皆様からのリクエストにもお応えしますので、考察・解説してほしいネタがありましたら、お気軽にお問い合わせください]

最後の文章が謎かけのようになっており、何度も読み返えしてしまう作者の術中にはまってしまう読者が多いのではないでしょうか?または、教科書に採用されたため、特定の箇所・思想にとどまり続けることの危険性、な教え方をされた方も多いのではないでしょうか?

上記の側面も否定しませんが、実は上記は見せかけで、実際は、蛙みたいな友人がほしいな~、のつぶやき私小説です。

主人公の"山椒魚"は、おそらく作者の分身の一部であり、小説から分かるように、かなりの頑固さん、かつ、素直になれないめんどくさい人、だったのではないでしょうか。また、”屋根の上のサワン”、からも分かるのですが、主人公が回復した雁のサワンを気前よく解放しないところからも(どこかに行かないように羽を切っているし…)、井伏鱒二は頑固さんのわりにさみしがり屋さんだったのかと想像します。

で、この物語では、作者の分身である"山椒魚"は書き出しにあるように悲しんでいたのです。で、この文面が井伏鱒二の、"素直になれないめんどくさい人"、を象徴しているのですが、以降、"悲しい"は描写しても、"寂しい"を直接描写しないところが、なんとも素直でない…。ほんとは、"寂しい"、はずなのに…

それに対して、ともに"悲しい"を共有できた"蛙"は、寂しい作者自身が描いた理想の友人像(これも、素直になれない、かなりの頑固さん)であり・友人になるまでの過程であり、最後の1文で"山椒魚"と"蛙"は友人になった、と理解するとと、クスっと笑いながら読める私小説ですよ。



この記事が参加している募集

読書感想文

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?