自我は雑草2(自明のことを自明とみる力)
以前書いた以下の記事に加えて今日は又、別の視点からお話してみたいと思います。
岡潔のいうこの情緒の中心を通り、地軸をも貫いている無差別智というのは、私が心理マネジメントの中で扱う光と同義です。
わたしたちの心には、光というものが宿っていて、それは私たちの意識を貫いている。なので、この光を軸にわたしたちは自己形成しているという事になる。
でも、岡潔のいうようにこの私たちの中心を貫く光の存在をわたしたちは認識することが出来ていない。昔はこの光を認識することが出来る人間はたくさんいたと考える。でも、この現代社会ではこの精神的な意味での光を認識することが出来る人は本当に少ない。
岡が指摘している様に、私たちは自明の事を自明とみる力、平等性智、これを限りなく失っている。何故、この知力を私たちは失ってしまったのか?それは以前の記事で書いてた様に、この私たちの中を貫く精神的な光(平等性智、無差別智)がエゴによって見えなくなってしまったからだといえる。
ここでいう平等性智というのは、自分の都合ではなく、平等にものを見る智慧の事をいう。また自明というのは証明したり特に詳しく説明したりするまでもなく明らかな事を意味する。
わたしたち人間というのは、この自明の事を自明とみるその力を今限りなく失っている。そこには、私たち一人一人がその心に抱える恐怖や不安がある。
だから、自分の目の前にある自明を自明とみることが出来なくなっている。それほどに、今私たちの目の前にある現実、一人一人が抱えるその現実は厳しいものになっている。こうしたことにどれだけの人が気づいているだろうか?
なんでもかんでも、みな自分に都合の良い形にそこにある形を歪めて、人は認識しようとする。こうした行為全般は自分を守るための防衛機制であると考えることが出来る。
みんな傷つきたくない、苦しみたくない。だから、自分の目の前にある現実を歪めてその現実をありのままに理解し受け入れようとしない。ある意味、強烈な事を言わせてもらえるなら、腐った人間が増えたといいう事になる。
目の前の現実をありのままに見て取ることができない。それほどに、その目の前にある現実が自分にとって不都合なものとなっている。でも、私がここでよく考えてほしいことは、その自分に不都合な現実は、その当人が作ったものだと私は声を大にして言いたい。これはよく私のクライアントにも話すことだ。
皆、自分で好き勝手に生きてきて、それにより積み重なって出来たものをこんなものは私の欲しかったものじゃないといって、それらがしっかりとした形をもってその当人の目の前に現れると、多くの人が、自分でそのものを作っておきながら、そのものを自分が欲しかったものじゃないといって引き離そうとする。
やるだけの事をやって、それによって出てきた形なら、それをそのまま受け入れるのが筋だと思うのだが、おおくの人はそれをしようとしない。
誰がみても、聞いてもそれは明らかなことなのに、当人はそれを否定する。これは本当に恐ろしいこと。自分を守りたいのもわかるけれど、ここまで自分から目をそらしていれば、もう私のいう光との絆は完全に絶たれたことになると考えていい。
光を元に自己形成している人間というのは、自分がしてきた事に責任を持つことが出来る。どんなことでも、それが自分がしてきた事であれば、その結果を甘んじて受け入れようとする。つまり自己反省的な意識を持っていると考える。
でも、常に自分から目を背け続ける人間というのは、この自己反省的な意識を持っていないと考える。この自己反省的な意識というものは、私たちの中を通るこの光、無差別智が与えてくれるものであり、この岡のいう無差別智、これが自分の地金として機能していない人間は、もはやこの自己反省的な意識を持たない。
だから、彼らに何を言っても無駄。自分の中から、この無差別智(光)をエゴによって埋めてしまった人間は、このエゴを取り切らない限り、再びこの無差別智(精神的な光、自己反省的な意識)とつながることは出来ず、自分の精神を今以上にアップデートすることもできない。
私は個人のセルフマネジメントの仕事をしているものだが、いくら頑張ったところで、この精神的なもの(光)と離れてしまったもの、どう頑張ってもこのエゴという雑草を取り切るどころか、さらに自分の恐怖や不安ゆえに、紺の草を増やそうとしている人には、はっきりと、あなたはこれから先どんなに頑張って努力してみても、その精神をアップデートすることは不可能だとそのありのままを伝える。そこに現実を歪める必要はないと考えるからだ。
これまで様々なカウンセラーに遭遇することはあったが、彼らはこの自明を自明とみる智力を意外に持っていない人が多いと感じてきた。彼らには、何らかの恐怖や不安があり、それを隠すためにクライアントとの間にあるものをいとも簡単にゆがめる。それも自分勝手に。そして、自分の意思が殆どないクライアントは、そのカウンセラーの歪みにも気づかずに、その歪みの中に取り込まれていく。
そしていつの日かそういったクライアントとあうと、そのクライアントはすっかり、そのカウンセラーに自分を奪われ、完全にそのカウンセラーと同一化している。このクライアントの同一化は、完全にそのカウンセラーにい対する恐怖心から来るものだと私は考えている。
こう考えていくと、皆、何かに依存し、そしてその依存したものに同化することで自分の身を守っている。そうやって、人の中に隠れて自分自身で戦おう!という意思すら見せない。
彼らは残念ながら、精神のアップデートを図ることは極めて難しい。
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