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覚醒、そして再誕

1つのものに、意識を集中し続ける。そのものは、なんでもいい。物でもいいし、言葉でもいい。そのものに意識を集中する。

そうすると、そのものの中から、新たな認識が生まれてくる。

何かに集中するという事は、そのものに命と尊厳を認めるという事になる。

そのものに、意識をフォーカスし続ければ、そのものはおのずと自らの力を持って自律的に動き出す。

意識を集中させるという事は、そのものに生命を与えるという行為に等しい。

紙の上で光を一点に集めると、そこから火という新たなものが生まれてくる。それと原理は一緒。

何にでも自分の意識を集中させれば、そこにバッと火が付く。火というのは、命のこと。一点に意識を集中させ続ければ、そこに私たちは生命を生み出す事が出来る。

火をつける。そうすれば、それらは、目覚め、自分の力で稼働するようになる。火というのは、眠っているものを目覚めさせるという意味ももつ。

火=エネルギーという事は、つまり、意識を何かに集中させ続ける事が出来れば、私たちはその何かに個別的な命を与え、動かす事が可能になるという事。

眠っていて、目覚めていないものを目覚めさせ、そしてそれらを稼働させる。それには、意識を一点に集中させる事。そうする事で、動かなくなってしまっているものに、私たちは命を与え、それを動かす事が出来る。そのものに、火をつけてやることで、そうしたものは動き出す。

眠っているものを起こすには、覚醒させるには、そこに絶えず意識の光を与え続ける事が最も重要な事となる。

この世界にある全てが、命を持つもの。だとしたら、その命あるものを命あるものとしてよみがえらす事が、私たち人間に与えられた使命なのではないだろうか?

こういうものだと意味を固定化され、その命、生命を奪い取られたものは今、命そのものを奪われて自律的に動く事が出来なくなっているだけ。だとしたら、意味を固定化され、自由に動く事が出来ずに命を失ってしまい、本来の姿で生きられず、もはや完全に眠りについてしまっているものをのを、私たちは蘇らせなくてはいけない。

意識を集中させ、そのものに光を与え続ける。その光、火、エネルギーにより、そのものは自らを蘇らせる事が出来る。

意識を何か一点に集中させる事、それは、今も自由を拘束され、自由に生きる事が出来ない多くのものを救い、そのものに尊厳を取り戻させてやる行為であると考える。

拘束されているものを、自由に解き放ち、そのものの、自立性を尊重する。それには、私たちが、拘束され、自由に動けず、その生命を尊厳を奪い取られている多くのものを救うために、日々瞑想というものが必要になると考える。

瞑想とは、自分を救うための手段ではない。瞑想とは、意味や尊厳を奪われているものに、その誇りと尊厳を取り戻させてやるという意味において、非常に崇高な行為であると考える。

意味や、その尊厳を奪われ、価値を人間によって貶められた多くのものが、瞑想という崇高な行為によって、その尊厳と誇りをその胸に取り戻す。生命を取り戻す。それが、結果的に、そのものを、そしてこの世界を豊かにするという事に繋がっていくのだ。

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