内的衝動と創造
私たちは自分を表現したいから文字を書く。そして絵を描く、何らかの造形物を作る。でも、今これがAIにとって代わられようとしている。
表現したいから作るのであり、この表現するという部分をなんだか切り落とされてしまっている気がしてならない。
作りたいから、作るのであって、何かが欲しいから作るのではない気がする。作らずにはいられない、書かずにはいられない、何か創作せずにはいられない。こうした強い衝動が私たちの中にはあり、それを私たちは外の世界に向かって表現する。
これは言ってみれば一種のストレス解消。でも、このストレス解消も今や出来なくなってきている気がする。
ストレスがあるから、何らかの衝動が暴れ出すわけで、この暴れ出した時の爆発的なエネルギーで私たちは様々なものを創作する。
でも、この創作をAIが取ってかわってやることになる。
今のこうした世界のありかたに妙な違和感を感じるのは私だけだろうか?いったいわたしたちは何のために絵をかき、詩を書き、そして歌を歌い、文字を書いて文章を作り、造形物を作るのか?人間にとっての創作とは一体何であるのか?
その根源にあるものを今一度私たちは見返す必要がある気がする。
何のために絵を描くのか?それは他とのコミュニケーションを図るためのものではなかったか?なんのために踊りを踊るのか?それは他とのコミュニケーションを図るためのものではなかったか?何のために私たちは文字を、文章を書くようになったのか?それは物を書いたり作ることによって、私たちはそこに自分が存在することを示すためだったはずなのではないだろうか?
生成AIの登場により、それはそれはきれでうつくしい、形の整った文章であったり絵を描いたりすることは出来る。でも、だからと言ってそれがいったい何なのだろうか?
キレイで美しい画像を生成するためのプロンプトを必死に考えて、それで自分が満足する画像生成が出来たら、そこに自分が望むものが出来上がってくればそれで私たちは真に満足することが出来るのだろうか?甚だ疑問だ。
今現在に生きる私たちは、何をするにもその根源的な意味を完全に見失っているそんな気がする。
自分の欲しいものを作ることに必死で、その行為を自分が何故やるのか?といったもっと深いところにある意味を求めようとしない。本当に軽薄な状態に私たちは陥ているのかもしれない。
▼個人、組織のメンタルマネジメントから、セルフマネジメントも行っています。詳しくは以下のHPにてご覧ください▼
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?