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目線を他者へ−屈折した心との闘い−

皆さんは、自分が生きる意味とか自分の存在価値について考えることがありますか?

私の場合は、ネガティブ思考に囚われているときに悶々としながら考えることが多いです。

さて、ではどうしてネガティブな思考に陥るのか。
私の場合は、
○「他人から必要とされていると感じられない
○「他人から軽んじられているような気がする(一部からは馬鹿にされているような気がする)」
○「他人から嫌われているような気がする(文句や悪口を耳にしたとき等)」といったときに発動することが多いです。

これらは例外なく、意識や興味関心が自分自身に向いています。

以下、少し昔の話です。
私が自分探しで迷走していたとき、片っぱしから友達に「私が大切にしているものって何だと思う?」という問いを投げかけたことがあります。これは友達がどのように私を見ているかがわかる問いでもあります。

いくつか寄せられた答えのなかで一番印象的かつショッキングだったのが、
自分
というものでした。

解釈はいろいろだと思いますが、私は根っこがネガティブな人間なので、自分自身のことばかりを考えて、自分がどうやったら満たされるかしか考えていないと受け取りました。
もちろん、確固とした自分を持っていて、他者や環境に流されないとポジティブに捉えることはできるのかもしれませんが、私には無理でした…。

自分はいろいろな人と接して、楽しく会話したり、様々な社会的テーマを議論したりするのがとても好きです。他者への興味関心は人一倍強いほうだと思っています。
そして、「与えられる人」ではなく「与える人」になることの重要性も理解しているつもりです。こういった内容の本もいっぱい読んできたし、人と接していれば肌感覚でも理解できます。

それでもなお、自分探しに迷っていたときの記憶を思い出しながら、「やはり私は意識や興味関心が自分にばかり向いているんじゃないのか…」と悲しみに暮れています。なんだか情けないというか惨めというかそんな気持ちでいっぱいになっている今日この頃なのです。

他者に意識や興味関心を向けて、困っている人を助けたり、他者がされて嬉しいことや喜ぶことをしてあげたりして、誰かから感謝されることが日常化している人は、きっと生きる意味や自分の存在価値に悩むことは少ないのかなという気がしています。

相手に何をしてあげられるか、何をしたら相手が喜んでくれるか、相手は今どのようなことで困っているのか、に意識を向けて興味関心を持って、行動に移すことが重要なのでしょうね。

…答えは出ました。
ただ、問題はここからです。

私は邪推してしまうのです。
「きっと私が手を差し伸べても迷惑だろうな…」
「私より○○さんみたいな頼もしい人に助けてほしいんだけどって思われているだろうな…」
「そんなつもりはないのに偽善だと思われたらなんか嫌だな…」

アドラー先生から「他者に貢献できていると自分が思えればそれで良いんだよ」と怒られそうです。

何事も邪推してネガティブに考えてしまう屈折した心と闘い、勇気を持って踏み出すこと。
それが私が深い悩みのループから抜け出すために必要なことだと思っています。

具体的にどうすれば屈折した心を少しでもまっすぐにできるのか、どうすれば勇気を持てるのか、今悩んでいるのはこれです。

悩み自体は全く解消されていないですが、文章にすることで悩み自体は整理されて、自分が処方箋として何を求めているかまではわかりました。

私のくだらない悩みのために、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました🙇

※屈折した心ゆえに抱えている悩みや葛藤はまだまだたくさんありますので、好評?でしたら記事にしていこうと思います。

【結論】
①他人から自分がどう見えているか、気にしすぎ。
②「他人に与える」という経験、少なすぎ。
③整理されていない文章、長すぎ。



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