水沼朔太郎
ふるさとは夢の中でもニュータウン坂の途中で自転車を押す 退屈なときは長方形がいい体温計のパネルもそうだ 証明写真だけでも撮ろうとしてた日の散歩コースにアジア図書館 線路拡張工事に従事する人を夜勤と感じないのはなぜか くねくねと曲がって入ってくる電車 遠近法で学んだモナ・リザ スープカレーはご飯と一緒に食べるのか迷う時間でご飯が炊ける あなたもきみも離婚をしなよそれはそうと秋には電撃結婚をする 満身創痍の高校三年のぼくにゆっくりもどる秋の髭剃り 力仕事を麦茶でやり過ごす秋の麦茶
引っ越しと恋人 地球最後の日 最後の一秒まで追いかける 後手番を進んでのぞむ早石田ぼくの歩みに死は似合わない 川へと降りる階段はいつも険しくてカルガモカルガモ一段一段 花の写真を撮らなくなった三年に転職と休職と復職 時間切れって負けた感じがしないよねかじかんだ手に嵌める手袋 邂逅と書けば背筋が伸びそうだ 一期一会と書けば春雨 袋から小枝こぼれて捜索中かき揚げみたいな埃が出てくる お花見に時間合わせて向かうのも不可能なぼくの日勤夜勤 何事も後手引くぼくがゴールデンウィークを前に
手当を致しますから フィールドの選手がベンチへ引き上げていく マナーとコメント ライブハウスの喧騒の火種は消えない 時差と時間差 結果を出した己を讃えるスタイルはベンチを鼓舞するかたちへ変わる 海水浴に関係のない水着とか勝敗に関係ないヒットとか ハンカチ王子落ち着く場所に落ち着いてスマートな反抗期は一度 金属音。レフトの前に打球が落ちる。管楽器、ライブの管楽器。 キラキラネームの時代は過ぎてオリジナルネームの時代 水沼朔太郎
東名阪で一番雨に近いのは名古屋 名古屋の名が雨っぽい コロナ禍の前の話を何回も 五年前、四年前、五年前 受信料払わないまま朝ドラを見ているような胆力だよね 解釈は人の手を借りおのずからほどけていった青椒肉絲 グルーミングになりそうな恋だったからピントの合わないアーティスト名 グルーミングになりそうな恋だったからヒントにならないアーティスト名 かわいいに三日で飽きるような味 終電の発車時刻待ってる
春の雨 ぼくたちに必要なのは体温の調節だけなのに 雷に打たれるか蜂に刺されるかふたつにひとつかち割り氷 迷子になると悟ったところで両耳のイヤホン取ればすぐの最寄り駅 雨の日の難波へはるばるありがとう多摩ナンバーのキャンピングカー パパ和食しかないって子どもの声がした地下鉄直結のトイレから カラスが鳴いてガスが通った母の日に母の家から職場へ向かう 両側をサラリーマンに挟まれて読書の代わりに対局をする パンばっかり食べてる夜勤が終わったら王将へ行く餃子の王将 ゆめ咲線で声を発して
昨日久しぶりに(最後のライブがいつだったか思い出せないぐらいに)音楽のライブに行ったので、これまでに行ったライブのことを思い出してみた。 つらつら書き出してみたが、しかし、どのライブが一番最後だったかは思い出せず。 これ以外にもコロナ禍(と言いながら、先週はじめてコロナ陽性になりました)にミツメとceroのライブをオンラインチケットを購入して観たり、YouTubeで中継のあったフジロックのceroや羊文学、一時間近いplentyやROTH BART BARONのライブ映像、ド
掲載誌からネットへの月詠全首掲載には思うところがあるのですが、2月号掲載分は来年度のかりん賞(一年間の月詠を連作として再構成して応募する)に含まれないのと、3月号を欠詠したのと、なによりデビュー号ということで、今回に限りネットに公開しようと思います。なお、最後の一首は碧野みちるへのオマージュです。 かりん月詠 2024年2月号掲載分 リュックからマフラーを出す勢いでぬいぐるみぽっこり顔を出す あたらしいトイレを大事にするように紀元前まで遡ろうか イチローと羽生結弦をイ
短歌結社「歌林の会」(通称「かりん」)に来年の1月から入会します。まだ一年間の会費を振り込んだだけなので正式な申し込みはこれからなのですが。 短歌をはじめて8年程が経ちましたが、これまではずっと無所属で活動してきました。無所属とはいえ、片道200円圏内に葉ね文庫があるのと、短歌シーンに関心があることから流動的ではあれ歌人との交流はあって、短歌の情報を得る上でそこまでの不便を感じてはこなかったです。ただ、流動的ということはシーンの流れに振り回されることでもあって、同世代や下の世
3回目は、解釈に迷うことがネガティブさに繋がらない稀有な歌人である椛沢知世さんの歌について書いていきます。 椛沢さんの歌で最初におっ! となった歌。この歌は比較的わかりやすい方の歌で、書いてあることの景は想像可能だと思います。いわゆるカメラワーク的な視点にはなっていなくて、雷、窓ガラスと距離感がなくなった私が背中写しに見える、その感覚が短歌的な眼を無効化していながら、一方で、〈雷〉や〈窓ガラス〉のスケール感によって空間のデカさは失わない。絵画の画面の中にいるはずの〈私〉がそ
今回は読み下し方に迷う歌について書いていきます。 頭から読んでいくと、白鷺の(5)ほうについてゆく(7)私に(5)つながる細い(7)水路を躓、の〈つ〉あたりで躓く。水路をつっ。より正確には、〈水路を〉の〈を〉の段階で来るはずのものが来ないような予感がある。そこから、戻って、白鷺のほうに-ついてゆく-私に-つながる、だった、か、と読み直す(そして、こっちの読み下しになると「わたくし」が「わたし」になる)。ただ、これも〈細い水路を躓きながら〉が下句らしい、ということを理解してか
歌会などでときどき耳にする「上句が好きだったので票を入れました」のような部分点をわたしは短歌に認めていない。そのため、これまでは何よりもまず一首として完成していると自分で判断した歌しか基本的には引用したり言及したりしてこなかったのだけど、それを厳密に適用し過ぎるとなにも言えないと思う機会も増えてきたので、解釈は迷うがちょっと喋りたい歌についてつらつら書いていきたいと思う。 下句の〈アパートという楽しい楽器〉という表現から、一首は、壁の薄いアパート内の喧騒を決してネガティブに
一泊二日東京日記 六月中旬に一泊二日で東京に滞在した。生まれてはじめての東京ではあるが、わたしにとって今や東京はほとんど短歌と同義である。高校時代に通っていた高校の必要以上の国公立推しへの反発(で、実際に早稲田に進学した同級生もいた)と夏の甲子園の斎藤佑樹の活躍を見て、早稲田に行って神宮で六大学野球を観るとほざいていた時期もあるにはあった。 大阪ないし近畿圏の外に出るのが億劫だったというよりは新大阪とか関空とか梅田のバス乗り場とかそういうところまで行くのがどちらかというと
「母」と「兄」を詠み込んだ短歌をまとめてみたのだが、まとめてみてこの一年「母」と「兄」を詠み込んだ短歌を作っていないことに思い当たる。ドラマの考察などで目にする「○○はここで物語から退場する」という表現が好きなのだが、それでいうと兄は退場したっぽい。〈冷凍機能がなくて一年アイスクリームを冷やせなかった兄の婚約〉。 一方、母は最近は比較的安定していて、老人ホームで暮らす祖母の見舞いと糖尿病の予防兼治療が中心の日々に退屈はしているようだが、ご飯に誘ってくれる知人もちらほらいるよう
K-POP(ヨジャグル第4世代)が相対化されつつある。東京文フリで「ヨジャグル第4世代から5曲」を載せたフリペを配布してある程度書ききってしまったのと深夜勤務中にceroの新譜が配信されたのと、友人からMallboyzの新着動画のリンクが送られてきたのと、「にわのすなば」を観に行ったのと。ざっくりまとめると、親しみのすでにある抒情を思い出してしまった、ということなんだけど、逆にいうとやっぱり一年近くつづいたK-POPヨジャグル第4世代への関心はなにかしら未知の刺激であり続けた
〈I got no time to lose〉の季節は STAYC のカムバックにより一気に吹き飛んだ。一聴したときにわかりにくいと感じたイントロ(なんだけど、何度か聴くと前作の雰囲気が仄かにある)や振り付け(鼻つまみ、ジャンプ、ハイタッチ……)、エンディングでの後方への駆け抜けなど、当初は不安になる要素がわりとたくさんあったが、ベストアクトだと思った映像の Sound Remasted 版の FANCHANT にすっかり元気付けられて〈Teddy Bear〉はスルメ曲(佐々
活字を日常的に読むきっかけになったのが、授業料免除の更新がかかった学校生活+模試とその延長線上での受験勉強だったせいか、長い文章、とりわけ小説を黙読できない。できないことにそれなりにコンプレックスもある。しかし、満身創痍だった受験勉強を乗り切るウルトラCは音読だった。音読は、眠気を打ち破るためのパワープレーだった。もちろん、その弊害は十数年経った現在にもあり、相変わらず、小説はほんとうに数えるほどの作家をモチベーションで一点突破しているような状況で、読んだ本を器用に批評の遡上