解釈の迷う歌②

今回は読み下し方に迷う歌について書いていきます。

白鷺のほうについてゆく私につながる細い水路を躓きながら

山崎聡子「白鷺のほうに」『短歌研究』2023年10月号

頭から読んでいくと、白鷺の(5)ほうについてゆく(7)私に(5)つながる細い(7)水路を躓、の〈つ〉あたりで躓く。水路をつっ。より正確には、〈水路を〉の〈を〉の段階で来るはずのものが来ないような予感がある。そこから、戻って、白鷺のほうに-ついてゆく-私に-つながる、だった、か、と読み直す(そして、こっちの読み下しになると「わたくし」が「わたし」になる)。ただ、これも〈細い水路を躓きながら〉が下句らしい、ということを理解してからの判断で、そう、こういうタイプの歌は判断を迫られる。一方で、〈つながる細い〉も繋げて読みたくなる部分でもあって、読み下しのスムーズさを優先するなら〈細い水路を躓きながら〉の接着は必須になるけれど、なんだかんだ初読の躓きも捨てがたくなってくる。この歌は20首連作の最初の歌でタイトルナンバーでもある。

四十代が兆したり靴のクリームの蓋に書かれた英字のように

平岡直子「わたしの顔のなか観覧車」『歌壇』2023年10月号

この歌では、〈靴の〉が読み下したあと迫られる判断によって余剰部分だとわかる。ただ、やっぱりこっちの歌も前から読み下したときの最初の感覚、とりわけ四十代(5)が兆したり(7)(〈が〉に強いアクセント)を大切にしたくて、当初は〈靴のクリームの〉の〈靴の〉ないし〈クリームの蓋〉と限定していくディテールを読ませる歌なのかと考えていたが、むしろ〈四十代/が/兆したり〉の二句切れ(7・5)を強調させる一首なのかも。

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