社会性の練習(二十二)

K-POP(ヨジャグル第4世代)が相対化されつつある。東京文フリで「ヨジャグル第4世代から5曲」を載せたフリペを配布してある程度書ききってしまったのと深夜勤務中にceroの新譜が配信されたのと、友人からMallboyzの新着動画のリンクが送られてきたのと、「にわのすなば」を観に行ったのと。ざっくりまとめると、親しみのすでにある抒情を思い出してしまった、ということなんだけど、逆にいうとやっぱり一年近くつづいたK-POPヨジャグル第4世代への関心はなにかしら未知の刺激であり続けたように思う。

それにしても、音楽一曲一曲のあまりの雄弁さにまいってしまうことが頻繁にある(歌詞単体ではなく、ビート、メロディ、鳴っている音、歌詞の総合体として)。頭での共感とは違ったかたちで、身体がダイレクトにやられてしまう(自分がほんとうに望んでいる身体のリズムがわかってしまう)。なので(?)好きな音楽(繰り返すが、歌詞ではなく総合的に)が重なるってとんでもないことだと思うし、そういう意味である程度合わなくて全然良いとも思う。

てなこともあり、K-POPヨジャグル第4世代から5曲というのは下手したら好きな短歌5首よりも恥ずかしさにおいては勝っていたように思う。妙な言い方になるけど、言葉でならいくらでも自分を騙せると思う(言葉で正確に言語化できる能力がまだ自分にはない)ので。

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