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多感な僕らは複雑さをほどけずに。

「あなたに私の何が分かるの?」
ドラマとかでよく耳にする言葉。
聞きすぎてだいぶ飽和してしまっている言葉。
一日に日本のどこかで喧嘩しているうちの5人くらいは言っていそうな言葉。

この言葉の返しとして妥当なのは「分からないよ」かな。
恋愛ドラマとかだともっと甘い言葉でも囁くのかしら。
すごくどうでもいいけど。


同じ価値観の人間なんて存在しない。それは至極当然のこと。
だって同じ環境で育った兄弟でさえ考えていることは全然違う。
親と同じ価値観にもなり得ない。私の隅々までなんでも知っている人なんて誰もいないし、私が大切に思っている家族や友人でさえ、深いところは何も知らない。だって私でさえ自分をよくわかっていないんだから。

けれど、それは時々私たちとの間に心地よさを生んでくれる。
その心地よさにはたぶん、「似た者同士」の波長があったりするかもしれない。

「類は友を呼ぶ」なんてよく言うけれど、ここ数年自分であったりものの見方を客観視することがだんだんと上手になってきた中でこのことわざがどれだけ的を得ているかを、しみじみと感じていたりする。

同じじゃないはずなのに、ずっと一緒にいる人たちがいること。これは本当に直感でしかないのだけれど、たぶんこれからも一緒にいるのだと私の中の私が言っている気がする。そんな人たちが私の近くにはありがたいことにいてくれる。家族以外にそういった人々が現れていくことって、すごく不思議だ。だから今生きることをやめられない。
同じじゃないけど何か似てる。この感覚がずっと言語化できなかった。今の私で精いっぱい言うとするなら、私の近くにいてくれるのは「気づく人々」なのだと思う。

今日の空が昨日と違うこと、季節の匂いは違うこと、海が澄んでいること、昨日より花がしおれていること、脚に掠れる草木がくすぐったいこと、花火の匂いに寂しさを感じること、降り積もった雪のなかにある小さな足跡が可愛いこと、車窓から漏れる光が優しいこと、普通と違う自分がいることに悲しさを覚えること、将来大切な人がいなくなる事実に涙が出ること。

みんな、みんな、気づいてくれる。
きっとこれは当たり前のことじゃない。全部が淡くて、儚くて、美しいものだって知っている。その一瞬の景色を、綺麗だねって一緒に眺めてくれる人たちがいる。

もうこれ以上のことは無いんだ。
みんなただ生きるということの複雑さに苦しんで、私の知らないところでほどけない何かに泣いている。それは私も同じだから。
同じ時間を同じ場所で一緒にいられるときがあるなら、多感で繊細な私たちは1秒だって弾けるような美しい瞬間を覚えていられる。


その時にきっと涙が出るくらいに笑い合うんだよ。
死ぬまで生きていようって思えるくらいに。


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