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ジェノヴァのカタリナ「煉獄論」
再び私は次のように言う。私が看て取るに、神の側から見れば天国には門は一切なく、そこに入ろうと欲する者は誰でも入ることができる。というのは、かの神は憐れみそのものであり、自らの栄光に迎え入れようと両腕を広げてわれわれを待っているからである。 しかし私が看て取るに、神の本質は、人間が知り、想像しうるよりもはるかに純粋で純潔なので、魂が自らのうちに、ほんのわずかな穢れであろうとも不完全さをもっているなら
もっとみる『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ ⑨- 脱-創造、自らの根を断つ-
読みながらまたふと思った。
ヴェイユのこの本書は、仏教でいう「六道輪廻」の切断を行う作業でもある。
精神の考古学の中沢新一氏が若かりし頃、毎日毎日山へ出向き、六道の一つ一つを滅する修行をしていたのと同じ行いを、ヴェイユは思考によるその作業を、本書に綴っている。
勿論、「修羅・地獄・餓鬼・畜生・人間・天国」の切断は仏教の修行の内容であり、そういう括られ方はしていない。万象において受ける想いや発
「カイエ4」ヴェイユ
この世は、神のひそやかで超自然的な現存(その一つのかたちは世界の秩序と美であるが、他のものも列挙すべき)は別として、悪をおこなうかどうでもよいことしかおこなうことができない。 神に由来する善によって超自然的に保護されていないものすべてに、この世は悪のかぎりを尽くすことができる。
キリスト者であるとはこのことを信じることにほかならない。(?)
テキストの美しさやテキストの冥想から得られる人間の条件
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エクリチュール 仄のめかす黙した木々のこと。あなたとわたしと、他の聖なる動物たちとの答えについて 7/22-3 幸福の否定、そして、"自分の死者"
■幸福の否定、そして、"自分の死者"
・不幸とは他者の生に成り代わろうとするときに自覚される
・不幸は拭えないとシモーヌ・ヴェイユは思想を書いたが、死が訪れるときにはどのようにしても不幸は拭われる(絶対的なものではない)
・どのようにしても死によって拭われるところの、この、不幸、とは、それがわかった時点から不幸ではない
・そのためには、日々死ぬこと、なのである(断じて自殺のことではない)
どの分野からも真理が追求出来るように、逆を言えば、分野というものは人間が分散させた個々にそれぞれ高度で豊かな付加価値をつけていっただけで、一つの真理と何ら変わることはない。言い回しを変えたに過ぎない。きっとそれはこの地球に限らずで、ミクロもマクロであっても同じ、今のところは。