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僕が一番欲しかったもの

もう10年以上前です。私は実家に行った帰りの車の中でCDを聴いていました。何度も聴いていた曲だったのに、何故かその時私の心にその歌の歌詞がドキューンと入ってきたのです。

気づいたら私は泣いていました。涙がハラハラ‥なんてもんじゃなくて、涙がドードーと流れて、運転中の私の目は涙で見づらくなったほどです。何がそんなに心に刺さったのか。何故その時だったのか。その時の私がどんな状態だったのか、実はよく覚えていません。が、とにかく歌詞が胸に刺さって刺さって、号泣したのです。このままでは事故を起こす、と思い、私は車とCDを止めたほどです。

もし今の私だったら、こんな稀有な経験は即noteのネタにします。私(の心)がその時どんな状態で、その歌詞のどこが私の涙の理由になったのかをこじつけて、いや考察してnoteに書いたはずです。しかし残念なことに、当時のことは全く覚えていない。自分が曲を聴いて泣いたことしか覚えていません。でも思ったんです。そんなことをふと今頃になって思い出したことこそ、私がnoteを書くようになったからこそだと。きっとこの歌詞は、noteの記事にすべきなのではないかと。

その歌詞とはこんな内容です。

曲の主人公(僕)はある日素敵なモノを拾いました。とても嬉しくて喜んでいたのですが、ふと横を見ると誰かがいて、その人は僕が拾った素敵なモノを僕以上に必要としている人だということがわかりました。せっかく素敵なモノを手に入れたのにという惜しい気持ちもありましたが、僕はその人にその素敵なモノをあげることにしました。探していれば僕はきっとまた素敵なモノに出会えるだろうと思ったからです。その人は何度もありがとうと言ってくれました。

その後もまた同じような出来事がありました。その度に僕は素敵なモノを手放し、素敵なモノをあげた相手は笑顔でとても喜んでくれました。
そんな事を繰り返していた僕は結局いつまでたっても素敵なモノを手に入れることが出来ないままでした。

ある日ふと、そんな自分が歩んできた道を振り返ってみると、そこには僕のあげたモノで沢山の人が笑顔になっていたことに気付きました。そうか、これこそが僕が一番欲しかったモノだったんだ、そう気付いた時に僕は今までで一番素敵なモノを手にすることができたのです。

(槇原敬之/僕が一番欲しかったもの)

無償の愛というのでしょうか。見返りを求めない愛。多分私はその時、家族の事を考えていたのだと思います。うちの旦那さんは何であれ自分だけが得するようなケチな人ではありません。いつも、何でも、独り占めせず、家族だけでなく周りの人にまで気前よく分けるような人です。私はそんな旦那さんのことを愛おしく思うと共に、家族にならともかく、他人にそこまでしなくてもという疾しい心が生まれてしまうのでした。子どもたちに対しては私だって無償の愛を捧げることができます。でも他所のお子さんだったら?やっぱり自分の子どもが一番可愛いのでした。
この曲を聴きながら、私は私の心の狭さを痛烈に反省したのでしょう。私が流した涙は、私の醜い心を洗い流すためのものだったのかも知れません。あれは「今までごめんなさい」の涙だったのです。あの涙で全てがキレイさっぱり流れたかどうかはわかりませんが、そこに気付けたことがせめてもの成長だったように思うのです。

今こうして10年以上も経ってあの時の涙の理由を考える機会が訪れたのは、noteを始めたおかげです。noteで沢山の人たちの温かい気持ちに触れたおかげです。noteの皆さんはいつもいつだって、優しさという素敵なモノを下さいます。

今の私(のnote)が誰かの為になる素敵なモノを持っているとは思えませんが、それでももしかすると誰かをちょっとだけ元気にしたり、何かのきっかけ作りのお手伝いができてたら嬉しいなぁと思うのです。誰かに喜んでもらえることが自分の幸せだと思えること、そんな素敵なモノ(気持ち)を手に入れて日々を過ごせるようにと、そんな気持ちになりました。今日も読んでいただきありがとうございます。

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