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温故知新(43)東国三社(鹿島神宮 香取神宮 息栖神社) オリンポス山 神崎神社 笠間稲荷神社 大戸神社 マラケシュ 少彦名命(蛭子神 恵比寿)

 鹿島神宮、香取神宮、息栖神社(いきすじんじゃ)は、関東地方東部の利根川下流域に鎮座する神社で東国三社と呼ばれます。古代、この付近には「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっていました。鹿島神宮の創建については、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)によると、神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといわれ、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としています。『常陸国風土記』では、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明され、この神は天孫の統治以前に天から下ったとしています。鹿島神宮の神殿の内部構造は、出雲大社と同様に、御神座が横向きになっていて、この二つの神社の歴史的つながりに基づくとされています。

 出雲大社と鹿島神宮を結ぶラインの近くには、八重垣神社(島根県松江市)、妻木晩田遺跡(鳥取県西伯郡大山町)、倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町)、元伊勢籠神社(京都府宮津市)、氣比神宮(福井県敦賀市)、中山神社(中氷川神社)(さいたま市見沼区)、女化神社(茨城県龍ヶ崎市)、大杉神社(茨城県稲敷市)があります(図1,2)。

図1 出雲大社と鹿島神宮を結ぶラインと八重垣神社、妻木晩田遺跡、倭文神社、元伊勢籠神社、気比神宮
図2 出雲大社と鹿島神宮を結ぶラインと中山神社(中氷川神社)、女化神社、大杉神社

 鹿島神宮の楼門(写真1)は、寛永11年(1634年)に水戸徳川初代藩主の頼房により奉納されたものです。鹿島神宮の本殿(写真2)が北を向いているのは、大和朝廷が北方の「蝦夷」を警戒していたことから、北に睨みをきかすためと伝えられています。

写真1 鹿島神宮 楼門 
写真2 鹿島神宮 本殿

 鹿島神宮は、昔は御手洗池にて禊をしてから参拝したという伝承を踏まえると、現在の参道(写真トップ)は本来の位置とは逆だったと考えられています。現在の奥宮は、徳川家康が奉納した本殿が元和五年(1619年)に移され、武甕槌大神の荒魂を祀っています。本殿と鳥之石楠船神(天鳥船神)を祀る石船神社(城里町)、及び、本殿と少彦名命(少彦男心命)の墓と推定される姫塚古墳(大洗町)を結ぶ線の中間の向き(拝む方向とは反対向き)になっています(図3、4)。元は、逆向きで須佐之男命と少彦名命が祀られていたのかもしれません。楼門の近くにある本殿とは参道の反対側にある鹿島神宮末社の須賀社(図4)には素盞鳴命が祀られていますが、北の方向を向いて拝むようになっています。

図3 石船神社(城里町)と鹿島神宮、鹿島神宮と姫塚古墳(大洗町)を結ぶライン
図4 石船神社(城里町)と鹿島神宮、鹿島神宮と姫塚古墳(大洗町)を結ぶライン

 鹿島神宮の北には大甕神社があり、大甕神社には、主神として武葉槌命(たけはつちのみこと)、地主神として甕星香々背男(みかぼしかがせお)が祀られています。『日本書紀』には、甕星香々背男は、葦原中国平定の際に服従せず、武葉槌命が使わされ、これを服従させたと記されています。大甕神社の創建は社伝によれば皇紀元年(紀元前660年)で、最初は大甕山(現在の風神山付近)山上に祀られていましたが、元禄8年(1695年)に本殿は、水戸藩主徳川光圀の命により甕星香々背男の荒魂を封じ込めたとされる磐座、宿魂石上の現在の地に遷座されています。鹿島神宮には要石(かなめいし)がありますが、龍は要石である柱に巻き付いて国土を守護しているともいわれ、また、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは龍を押さえているともいわれます。桓武平氏の血筋のお万の方を祖とし、朱子学を信奉する儒学者の林羅山の影響をうけたとされる徳川光圀(水戸黄門)は、要石を掘出させようとしたという話が残っているので龍信仰ではなかったと思われます。

 小島幸子氏の「水郷に鎮座する武神の社鹿島神宮・香取神宮」には、「鹿島・香取神宮の由緒を辿ると、藤原氏の前身である中臣氏と深い関わりが見て取れ、中臣氏が関わりを持つ以前は、物部氏が武甕槌大神と経津主大神を奉じて、この一帯を支配していたという」と記されています。また、下記の村山直子氏の論文にも同様なことが記載されています。

丸山二郎氏は、鹿島神宮・香取神宮は中臣氏と関係する以前に、物部氏が大和朝廷の先鋒として東国へ進出するにあたり、在地の有力神と関係したことにより成立したものであり、物部氏の没落の後に中臣氏が代わって祭祀を司ったものであると推察された。

出典:フツヌシ神話と物部氏 村山直子

 徳川秀忠の代に大宮司の中臣則広(なかとみののりひろ)が記した鹿島神宮本殿の棟札(茨城県立歴史館蔵)には、1619年に仮殿から本殿に御神体を遷座したことが記されています。高房社の北側にある仮殿は本殿とは逆向きで、奥宮、高房社などが摂社、大国社が所管社(正宮や別宮に直接かかわりがある社)となっています(写真3)。仮殿は何度か移設され、現在の位置に落ち着いたのは昭和22年(1947年)ですが、江戸時代後期(1824年)の『鹿島志』の挿絵図を見ると、仮殿は楼門の正面にあり、現在の高房社と同じ向きだったようです。

写真3 仮殿の表札 出典:https://seespo-ibaraki.jp/kashimajingu/

 豊玉姫命と推定される建葉槌命(倭文神)を祀る摂社の高房社が、参道と並行の向きになっているのは、参道の奥に末社の大國社(大黒社)(写真4)があり、途中に素盞鳴命と稲田姫命を祀る熱田社があるためと思われます(図5)。御手洗池(写真5)の近くにある大國社は、大己貴命(大国主命)を祀る大洗磯前神社のある北の方向を拝む向きになっています。大國社は、江戸時代にはすでにあったようです。名古屋市の熱田神宮の摂社で、尾張国造乎止與命(おとよのみこと)を祀る上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)には、大国主社(おおくにぬししゃ)と事代主社があります。

図5 大國社、高房社、熱田社を結ぶライン
写真4 大國社
写真5 御手洗池

 『常陸国風土記』に「沼尾社」として登場する「沼尾神社」は、経津主大神(ふつぬしのかみ)を祀り、沼尾神社が鹿島神の本源・地主神とする伝承があり、本殿は元和年間(1615年~1623年)に、鹿島神宮の奥宮にあった本宮を移したもののようです。『常陸風土記』には鹿島神宮の祭神がタケミカヅチであるとの言及はなく、「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説や、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説があるようです。『日本書紀』では「建葉槌命」を「武葉槌命」としていることから、「武甕槌神」は元は「建甕槌神」で、『古事記』の「建御雷神」も元は「建甕槌神」だったのかもしれません。

 千葉県香取市香取にある香取神宮(写真6)は、経津主大神を祀っていますが、延喜式内・石船神社(城里町岩船)と香取神宮の楼門を結ぶラインは、亀甲山と香取神宮本殿を通ります(図6、7)。経津主神(加具土命)と共に、天鳥船神(須佐之男命)への信仰があったと思われます。このラインの近くには、市杵島神社(行方市)があります(図6)。

写真6 香取神宮
図6 香取神宮と石船神社(城里町)を結ぶライン
図7 石船神社(城里町)と香取神宮楼門を結ぶラインと亀甲山、香取神宮本殿

 天鳥船神は、『古事記』の葦原中国平定の段(国譲り神話)では、建御雷神の副使として葦原中国に派遣され、事代主神の意見をきくために使者として遣わされたとされています。『神道大辞典』には、出雲国造の祖と天鳥船神(鳥之石楠船神)を同一視する説があるようです。千葉県香取郡神崎町(下総国香取郡)にある神崎神社(写真7)は、天鳥船命、大己貴命、少彦名命を主祭神とし、社伝によると白鳳2年(673年)に常陸と下総の境界にある大浦沼の二つ塚からこの地に遷座したものといわれています。

写真7 神崎神社と楠

 石船神社(城里町)と神崎神社を結ぶラインの近くに三昧塚古墳(行方市)があり、神崎神社と姫塚古墳を結ぶラインの近くに今宿水神神社(行方市)、香取神社(鉾田市)、鹿島神社(鉾田市)があります(図8)。神崎神社の本殿の向きは、石船神社(城里町)や姫塚古墳と関係があると推定されます(図9)。

図8 石船神社(城里町)と神崎神社を結ぶラインと三昧塚古墳、神崎神社と姫塚古墳を結ぶラインと今宿水神神社、香取神社、鹿島神社
図9 石船神社(城里町)と神崎神社、神崎神社と姫塚古墳(大洗町)を結ぶライン

 境内に地主稲荷が祀られているので、豊受姫命が祀られていると思われます。天鳥船命は、鳥之石楠船神ともいわれますが、神崎神社には、楠(くす、くすのき)の大木があり、神崎の大クスとして、国の天然記念物に指定されています。「楠」は、古来船材として重宝されてきた樹木で、楠の大木は、愛知県豊川市長草町の素盞嗚神社や、熊本県宇土市網津町馬門の大歳神社などにもあります。須佐之男命は、船は杉と樟(楠)で作れと教えましたが、杉と樟(楠)は、比較的比重が小さく(水に浮きやすく)、加工しやすく、大木になり、さらに精油成分が多く含まれるために防腐、防虫、防水効果があり、理にかなっています1)。社叢に多くみられる照葉樹の楠は、本来日本列島に自生していたか判然とせず、東アジア大陸部を原産とする史前帰化植物の可能性が高いとされています。天鳥船命は、木の神でもある須佐之男命と推定されることと整合します。

 茨城県神栖市息栖にある息栖神社(いきすじんじゃ)(写真8)は、鹿島神宮、香取神宮とともに東国三社と呼ばれ、久那斗神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天乃鳥船神、住吉三神を祀っています。

写真8 息栖神社

 久那斗神(くなどのかみ、岐の神)は、『日本書紀』においては葦原中国平定(国譲り)の際に、建御雷神と経津主神の先導にあたったとされています。また、道祖神の原型の1つとされ、『日本書紀』や『古語拾遺』では猿田彦神と同神としています。道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合したようです。久那斗神は、読みを「ふなと、ふなど」ともされるので、春日大社の船戸神と関係があると推定されます。

 一の鳥居の両脇にある二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」の中に瓶(写真9~11)があります。

写真9 忍潮井
写真10 女甕
写真11 男甕

 江戸時代の文書では、息栖神社の主神を気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)とする説があり、息栖神社の名前にも「息」があるので鍛治にも関係がある神と推定されます。また、加具土命だったと推定される武甕槌神の「甕」と忍潮井の「甕(瓶)」は関係があると推定され、気吹戸主神は、加具土命と推定されます。息栖神社とマラケシュを結ぶラインは、茨城県笠間市の宇迦之御魂神を祀る笠間稲荷神社(写真12)の近くを通ります(図10)。これは、加具土命(経津主神)と、后だったと推定される豊受姫命(豊受大神、倉稲魂命、宇迦之御魂神)を関係付けていると推定されます。

写真12 笠間稲荷神社
図10 息栖神社とマラケシュを結ぶラインと笠間稲荷神社

 息栖神社の本殿は、正面が富士山の方向を向いていることが知られています。息栖神社の社殿は享保八年(1723年)に建替えられていますが、1707年(宝永4年)には、日本最大級の地震である宝永地震の49日後に宝永大噴火が起こっています。このことから、富士山を鎮める目的があったのではないかと思われます。

 東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)は、ニ等辺三角形にレイラインで配置されていることが知られていますが、息栖神社とオリンポス山を結ぶラインは、鹿島神宮と香取神宮を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。また、香取神宮とオリンポス山を結ぶラインには、筑波山や男体山があります

図11 息栖神社、鹿島神宮、香取神宮を結ぶラインと息栖神社とオリンポス山を結ぶライン

 息栖神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、西之宮大神宮(潮来市)、須佐之男命、奇稲田比命、速王男命を祀り、獅子舞が県指定の無形文化財になっている素鵞熊野神社国神神社、熊野神社(行方市)、霞稲荷大明神(行方市富田)、熊野神社(行方市島並)などがあります(図12)。鹿島神宮と香取神宮を結ぶラインの中央にある西之宮大神宮の石の祠(写真13)には、上部が見えませんが菊花紋があるようです。安仁神社近くの永倉山山頂の岩座にある石の祠のように、十六菊花紋と思われます。

図12 息栖神社とオリンポス山を結ぶラインと西之宮大神宮、素鵞熊野神社、国神神社、熊野神社、霞稲荷大明神、熊野神社(島並)
写真13 西之宮大神宮の祠と石碑

 東国三社がオリンポス山とつながっているのは、須佐之男命(孝霊天皇と推定)の娘で、加具土命(経津主神)の后と推定される豊受姫命(豊受大神、倉稲魂命)を祀る由加神社本宮籠神社がオリンポス山とつながっているためと推定されます。

 兵庫県西宮市にある西宮神社は、全国に約三千ある蛭子神(恵比寿)を祭る神社の総本社です。茨城県常陸太田市西宮町に蛭児尊を祀る西宮神社(通称:西宮大神宮)があるので(図13)、潮来市の西之宮大神宮は、事代主神(恵比寿)すなわち少彦名命を祀っていると推定されます。西宮神社(常陸太田市)と鹿島神宮を結ぶラインの近くに姫塚古墳があることからも、姫塚古墳は少彦名命の墓と推定されます。

図13 西宮神社(常陸太田市)と鹿島神宮を結ぶラインと姫塚古墳

 鹿島神宮と香取神宮境外摂社の大戸神社(香取市)を結ぶラインは、香取神宮とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差し(図14)、香取神宮とマラケシュを結ぶラインの近くには、常陸国出雲大社(茨城県笠間市)、石積みがある八海山神社(栃木県矢板市)があります(図15)。マラケシュは、岡山県の瑜伽山や熊山遺跡ともレイラインでつながっているので、東国三社を創建した氏族は、吉備の邪馬台国(やまとのくに)の氏族と同族と考えられ、香取神宮の祭祀氏族が、経津主(加具土命と推定)の後裔とされることと整合します。

図14 香取神宮、鹿島神宮、大戸神社を結ぶライン、香取神宮とマラケシュを結ぶライン
図15 図14のラインと常陸国出雲大社、八海山神社

 大戸神社は、社伝によれば、景行天皇40年の日本武尊東征の際、蝦夷征伐祈願のために大戸の地に勧請したのが創建とされます。大戸神社と山形県長井市にある縄文時代中期(約4,000年前)の環状列石を結ぶライン上に石船神社(茨城県城里町)があります(図16)。また、大前神社(栃木県真岡市)と大甕神社(茨城県日立市)を結ぶラインは、大戸神社と環状列石を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。このことから、大戸神社は、縄文系の氏族が創建したと推定されます。

図16 大戸神社、大前神社、大甕神社を結ぶライン、大戸神社と環状列石(山形県長井市)を結ぶラインと石船神社(茨城県城里町)

文献
1)志村史夫 2023 「古代日本の超技術」(新装改訂版) ブルーバックス 講談社