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〜みたにノ戯言P.11〜


この世の中は幸せと同等か
それ以上に絶望が溢れている。


世界を知らない僕には、諸外国がどの様な暮らしぶりか、間接的にしか知ることができないが、少なくともこの国の中では、絶望の圧が低くのしかかっている。
僕らは絶望するために生まれてきたんじゃないかと錯覚する。絶望を嫌悪し、回避し、乗り越えて暮らす僕らは果たして幸せを望んで行動しているのか自分自身に疑問を投げかける事がよくある。


人間はそもそも絶望する事が大好きだ。

と、思ったりする。
みんな幸せの数より、絶望の質とその数を競う事に必死になって呼吸する。より良く生きるために、そして他者から見下された分、他者を見下ろすために。

いかに自分が幸せであるかを唱えると妬みの雨が降り、
いかに自分が絶望的であるかを提言すると称賛と慈愛の光が降り注ぐのだ。


僕らの幸せはどんどん縮小し、人並み以下の幸せをひっそり味合うので満足しなければならなくなった。


絶望であることを言う事が悪いのではない。
幸せを他者に見せびらかすのが正しい行為でもない。

人間はいつから他者を蹴落とす事に、他者の在り方を否定する事に、出来ない他者理解を出来ると信じ込む事に、それらに快楽を覚える様になったんだろう。
それはもしかしたら、初めから人類に備わった機能の一つかもしれない。それはもしかしたら、人類が存続するのに必要な手順かもしれない。

でも僕は絶望する事が本当に気持ち悪い。
他者を蹴落とすのも
できないことをできた気になるのも
幸せを認められない自分も


疑問と矛盾を抱いて主張したい。

僕らは絶望が大好きなんだと。
絶望している事に嘲笑して、慰め、喝采し、自己愛に満たされる事が、本当に大好きなんだと。

言い訳はいくらでもできる。自分を認めたいから、出来ない自分を見たくないから、理想を生きているという幻想の湯に浸かりたいから。

自己認識の失敗により生まれた理屈で、物事を判断する様になると、そこから湧き出るものはもう何もない。

枯れた井戸を大事そうに抱えた人が至る所で、足りなくなった水を求めて争っている。
彼らには、自分で井戸を掘るという選択肢があるのに関わらず、それをしようともしなければ、気づいていないふりまでするんだ。

嘆きの旋律を歌う迷える屍は自分を正しく認識できない。


みんな認めるべきなんだ。自分達が人生の血を流してまで切望したものが幸せでは無かったことに。


手に入れて本当に嬉しくなるのは、家族でも安定でも恋人でも金でも愛でも時間でも無く、歓喜の中で泥水を飲み干すために必死に這いずり回っていた事に。


幸せを求めていたのではなく、絶望を回避していたことに。





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