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【柳井正財団】『日本の素晴らしさを取り戻せ!?』 _1.イントロ

「社会を良くする」奨学金プログラムと
海外留学生の「やりたいこと」

この記事は、全部で80ページ以上ある人類学の卒業論文を一部抜粋したものです。それぞれの章ごとに別々のnoteを書いたので、自分の気になる部分だけつまみ食いするのもオススメです!久しぶりに書く日本語が下手くそすぎて自分でも読みづらいなぁと感じているので、英語が得意な方はこちらから原文を読むことを推奨します。

<目次>

0. 要約(以下の動画からも要約が確認できます!)
1. 「社会を良くするために、何をしたい?」
2. 協働的な研究手法
3. 戦後日本の政治経済と教育史のおさらい
4. 極めて曖昧な「社会貢献」の解釈
5. 柳井財団の期待と奨学生の実状の乖離
6. 「あなただったら、どんな「社会貢献」がしたい?」
7. 柳井コミュニティへの提案 (Appendix)
8. 引用文献


「大学卒業したら、何したい?」Zoomの画面越しに私は、海外大学に通う友達に聞きました。数ヶ月ぶりにキャッチアップする彼女の生活のことは、ごくたまにSNSから見る、断片的な情報しか分かりません。何気ない態度で肩をすくめながら彼女は、「まだ分かんない。誰のために社会を良くしたいのか、いまだに考えてるんだよね。」と答えました。少し間を空けてから、彼女はこう続けました「でも、とりあえず、コンサルとか投資銀行みたいな普通のキャリアパスを追いかけるのは絶対したくない、かな。」ペイフォワードの考え方を大切にする私たちにとって、大学卒業後の夢を語り合うのは、この時が初めてだったわけではありません。でも今回は、なぜ多くの日本人の海外大卒業生が、最終的には日本の大企業に落ち着いてしまうのかを、一緒に考えてみました。あくまでも私たちの思考実験ですが、もし完全な経済的自由を手にして、卒業直後の生活を気にせず自分のやりたいことを追求できるとしたら、どれだけ多くの学生が典型的なキャリア選択をするのでしょうか。高い給料の他に、コンサルティングや投資銀行の人気を説明できるのは、どんな論理でしょうか。これらの問いは、きっと単なる哲学的な妄想にすぎなかったかもしれません—柳井正財団が存在しなければ。

2016年、ユニクロやGUを保有するFast Retailing社長で、日本トップクラスの富豪でもある柳井正は、毎年約40名程度を採用する奨学金プログラムを開始しました。財団ホームページによると、柳井財団海外奨学金は「高い志や情熱を持つ日本人学生がグローバルな水準で学ぶことを支援する」ために始まりました (The Tadashi Yanai Foundation n.d.)。何百人もの応募者の中から「高い志や情熱を持つ」学生を見つけるために、財団の選考プロセスでは「グローバルな知見を持って各分野をリードし、日本社会の発展に貢献し得る資質」を第一に評価しています (The Tadashi Yanai Foundation n.d.)。言い換えると、柳井財団の合否は課外活動や勉学などの客観的な実績よりも、応募者が「社会貢献」にどれだけコミットしているかを判断しています。

また、「人々が自立して、互いに尊重し合い、豊かな生活を送ることができる社会づくりに貢献」するために (The Tadashi Yanai Foundation n.d.)、柳井正財団は全ての奨学生に対して、家庭の経済状況に関係なく、同額の支援を行っています。この奨学金は、大学関連の学費を支援する最大8万ドルに加えて、使い道が指定されていない1万5千ドルの生活支援金を毎年提供します一見すると夢のような話ですが、この5000万円の奨学金に応募するためには、「米国の概ねトップ50に入る大学、および同等レベルの英国の大学」に進学すること、そして、家庭支持者の年間所得が2400万円以下であることなどが条件となります (The Tadashi Yanai Foundation n.d.)。

しかし厚生労働省が出した2019年のレポートによると、2018年に年間2000万円以上の所得がある日本人は、たった1.2%のみです。従って、約99%以上の日本国民は所得制限の影響を受けずに、柳井財団の奨学金に応募することが可能です。財団職員によると、「なぜ財団は一人当たりの支援金額を減らして、より多くの学生を支援しようとしないのか」という質問は、受験生や保護者、そして高校教員などからも頻繁に受けるそうです。一見すると現在の奨学金制度は、柳井財団が掲げる「社会的に厳しい環境に置かれているため、身の安全を守ること、日々の生活を維持することなどに追われ、努力しながらも自らの未来を切り拓けない人々とその家族に対し、経済支援と高等教育や職業訓練の機会を提供する」という目的と必ずしも合致しないようにも見えます (The Yanai Tadashi Foundation n.d.)。しかし、財団職員によると、柳井正財団の目的は「社会を良くしてくれる人を支援する財団であって、必ずしも貧困層が高等教育を受けることを直接支援することではない」のだそうです。

社会貢献に対する意欲以外の応募資格には、在学期間を通じた日本国籍の所持と、基本的な日本語能力が含まれます。財団は日本人としてのアイデンティティを強調する一方で、応募者は日本での居住経験がある必要はありません。つまり、日本国籍を持っていれば、日本に一度も住んだことがなかったり、日本で教育を受けていなくても受験が可能なのです。実際に、1〜4期生の約36%は、海外の高校を卒業しています (The Tadashi Yanai Foundation n.d.)。まとめると、柳井財団奨学金を受給するためには、将来「グローバルな知見」を持って日本社会の発展に貢献するポテンシャルを持つことと、パスポートや言語能力によって証明される日本人としてのアイデンティが不可欠なのです。

財団が奨学生コミュニティの内外で「社会貢献」を強調する一方で、事務局職員から奨学生に向けて具体的にどう「社会貢献」をして欲しいのかは、一切示しません。その甲斐もあってか、スカラー達は幅広い分野で学問、課外活動に励んでいます。例えば、大学の専攻であれば東アジア研究学、分子生物学、都市開発学まで様々。課外活動では、本格的な体育会系スポーツに取り組む学生もいれば、オーケストラで演奏したり、自ら起業したり、大学院レベルの研究室でリサーチに取り組むスカラーもいます。このように奨学生の興味分野は多様な一方で、毎年一定数の卒業生が経営コンサルティングや投資銀行での就職を選んでいます。私自身も、過去4年間、周りの海外大生や留学界隈のメンター陣から、日本人留学生(柳井財団生かどうかに関わらず)の卒業後の進路が非常に偏っている、という話を何度も耳にしてきました。

実際、インタビューしたほとんどの柳井財団生も、多くの留学生が卒業後に似たような進路を選ぶことに、気がついていました。しかし、そのような留学生が、どのような経緯で進路選択をしたのかは、誰も詳しくは知りません。お互いの日々の生活に関する不明瞭さは、それぞれの奨学生がバラバラの場所で生活し、オフラインで顔を合わせられないことが起因しているのかもしれません。奨学金に合格すると、渡航前に日本で他のスカラーと交流する機会は数回ありましたが、それもコロナウィルスの蔓延により過去数年は難しくなっています。また、渡航前のオリエンテーション以降は、柳井コミュニティでの活動に参加することは義務付けられていません。つまり、オンラインイベントや隔週のグループチェックインで多少の交流ができたとしても、SNSから得られる断片的な情報や数ヶ月に一回電話する程度の付き合いでは、お互いのキャリア選択まで深く理解するのは不可能です。この、柳井コミュニティのおける不透明さそのものが、この卒業論文のきっかけとなりました。私は、他のスカラーがどのように奨学金を活用し、自分の「やりたいこと」を発見、探求しているのかを調べたいと考えたのです。

「やりたいこと」を英語に直訳すると “what one wants to do” という表現ですが、似たようなコンセプトを探すと、”curiosity”(好奇心=学びたい/経験したいこと)”aspiration”(抱負=将来達成したいこと)」または “passion”(パッション=夢中になっていること)」などがあります。言語学的には、「やりたいこと」は “indexical”(指標性)という特質を持っており、その言葉の具体的な意味はコンテキストに応じて変化する単語です (Peirce 1932;  Silverstein 1976). 例えば、「やりたいこと」という概念を柳井奨学金の面接で聞くとしたら、「大学で学びたいことは何ですか?」「4年後までに達成したい目標は何ですか?」「現在、夢中になっていることは何ですか?」といった質問がされるかもしれません。

私は、文化人類学的な研究トピックとして「やりたいこと」を考える上で、アージャン・シャンカー (2020b) が提唱した好奇心に関する理論を採用しました。彼がHamilton Collegeで行った大学生のメンタルヘルスに関する研究では、「好奇心」を文化の一部として探求するために、“emotional values”(感情価値)として定義しました。感情価値とは、ある行動を取るべきか、取らないべきかを定める社会的な望ましさのことで、その社会で主流な価値観によって左右されます。従ってシャンカーは、好奇心を「どの文化圏においても共通する普遍の特性」として捉えるのではなく、「歴史的、政治的、経済的、文化的なに複雑に絡み合う力関係のなかで、その人の好奇心がいかにして促進、または抑制されるのか」を考察しました。同様に、私も柳井スカラーのやりたいことを調査するために、「どんな人が、どのような文脈で、なぜ、どうやって[やりたいこと]を持ち、追求することができるのか?」を問います (Zurn & Shankar 2020b)。 

大学生のやりたいことについては、実際に複数の日本人社会科学者が、就職活動を通じて研究しています。例えば、鵜飼(2007)は、1990年初頭のバブル経済崩壊により、新卒就職希望者数に対する求人数が極端に少なくなり、採用側企業が求職者よりも大きな力を持つようになったことを指摘しています。このような採用市場の力関係の変化により、求職者同士の差別化を図るため、自分の長所や興味のある分野を言語化する「自己分析」が日本の就職活動において不可欠なものとなりました。また、採用の際に「自己分析」の質が重視されるようになったことで、自分のやりたいことが明確でないことへの不安や、羞恥心を助長している可能性が高い、と鵜飼は考えています。

当時京都大学の大学院生だった松浦(2019)は、やりたいことが学生の感情に及ぼす影響を探り、就活生が面接中のジレンマに対しどう反応するのかを調べました。企業側は、求職者に対して本来の自分を出すことを期待する一方で、彼らが将来望ましい社員となるかどうかを、その自己表現から評価するのです。この現象に対し松浦は、アーリー・ラッセル・ホックシールド (1983)の感情労働の理論を用いて、外的に与えられる感情ルールと内的に発生する感情との間にはしばしば矛盾が生じることを説明しました。松浦は、求職者が面接時に感じるストレスなどのネガティブな感情は、その矛盾から生まれていると主張したのです。さらにこの研究を通して、学生は不当な感情ルールに反発するのではなく、その解釈を自分の中で変えて従順に対応することで、自分のネガティブな感情を正当化しようとしたこともわかりました。松浦は、このような状況をみて、個人的なニーズを犠牲にすることで乗り切ろうとする就活生の必死の努力は、結果として彼らの主体性を損なうことになると危惧しています。

鵜飼や松浦とは対照的に、橋口(2006)は「やりたいこと」を言語化し、実現する能力をもとに、新たな社会階層が生まれる様子を検証しました。橋口によると、既存の社会制度に柔軟に対応し、常に自分の生活をやりたいことに応じて変化させることができる層が存在する一方で、「貧困の中で排除され、社会で役に立たないとみなされるアンダークラス」(濱口 2016: 166)が生まれてきました。これを柳井財団に当てはめて考えると、選考審査において、応募者のやりたいことが明確かどうか、それを実行できる能力があるかを細かく評価されるため、その人のやりたいことの内容によって、合格したり、不合格になったりします。言い換えると「日本社会の発展」に貢献するようなやりたいことを明確に提示できる学生は、海外留学のチャンスを得ることができるが、そうでない学生は奨学金を得られずに志望する海外大学への進学をあきらめたり、海外留学そのものを諦めることもあります。 

「やりたいこと」を通じた社会階級の形成過程を研究するために、私の研究では「新自由主義」を根幹のテーマとして探求します。デイヴィッド・ハーヴェイ (2005: 2)は、新自由主義を「強力な私有財産権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの中で、個人のビジネス活動の自由と能力を解放することによって、人間の幸福が最も発達すると提案する政治経済の理論」と定義しました。もう少し簡単に言いかえると、新自由主義は、グローバルな自由経済の中で民営化と規制緩和を実施し、「小さな政府」を推進しようという考え方です。多くの人にとって、「自由市場革命」は「必然的、自然、包括的」であり、とりわけグローバリゼーションを必然視する論理と強く結びついているように思われています(Peck 2010: 5)。また、昨今の新自由主義は、教育や個人のアイデンティティの形成といった、基本的な政治経済の領域とは無縁にも見える分野にも深く影響を与えています。

この新自由主義に関する理論は数多く存在していますが、私の研究では、“governmentality (統治制度)” としてアプローチします。新自由主義的な統治制度とは、個人の責任、民営化、国際自由貿易を通じて社会問題を解決するために、エリート層の育成に力を入れる、極めて柔軟な管理構造のことを指します(Hilgers 2011:358-60)。この統治制度の枠組みは、主に4つの理由から、柳井正財団を理解する上で有用です。まず第一に、「柔軟な管理構造」は、財団が奨学生のキャリア選択に対して一切の規制や助言を与えないことと重なっています。第二に、財団は国内のエリートが海外の教育を受けることが、社会問題を解決するための有効な手段であると考えています。第三に、柳井財団が、各個人が自分のやりたいことを探求し、それが社会を良くすると強調するのは、新自由主義において強調される自己責任論の表れとも見られます。そして最後に、財団の理事会のほとんどが有名企業の役員であることは、新自由主義的な統治体制を特徴とする、あらゆるものの民営化に類似しています。従って、新自由主義を統治体制として考えることで、柳井奨学金の制度とその奨学生の生活が新自由主義とどう関係するかを明らかにすることができます。

このプロジェクトは、経済的に停滞した日本を再び「素晴らしく」すると主張するエリート向けの海外大学奨学金プログラムに着目し、柳井コミュニティの中で「社会貢献」がどのように理解、実践されているかを考察するものです。財団が曖昧に表現する「社会貢献」とは何を指しているのか。奨学生はその曖昧な概念を、日々の生活の中でどのように解釈しているか。それらの点を比較検証します。また、「社会貢献」に関する思想的な議論に加えて、柳井生が大学在籍中および卒業後、どのように自分の「やりたいこと」を発見、追求しているのかも探求します。

本研究を通じて私は、柳井財団が曖昧にしている「社会貢献」のモデルが、エリート層の若者が自らのやりたいことを見つけ、実践するための社会的な障害を維持し、時には悪化させていると主張します。日本の国際的な評判を回復するための戦略としての海外留学について、財団はミッションを達成するために奨学生に対して組織的な介入を行う必要性を感じていません。仕組みでの解決をする代わりに、個人の努力が「社会貢献」の重要な要素であることを強調しています。このようなアプローチは、多くの柳井スカラーが自力では克服できない構造的な問題を無視することにつながります。また、財団の掲げるミッションに対して奨学生たちが「社会貢献」に対して無関心であることを指摘されると、財団側はどんなに建設的な批判も、単に的外れな意見として論点をずらしました。つまり、「社会貢献」にタイムラインを設けず、スカラー達を長期投資のポートフォリオとして捉える柳井財団にとって、組織のビジョンを達成できていない状態など存在しないのです。

学部生時代、私は多くの人類学者が世界の構造的な問題について口先で説明するだけで、解決策を示そうとしないことに対して、いつも不満がありました。恥ずかしながら、私は世の中を変えたいと願っていましたし、そうする準備も覚悟もあるのだと過信していました。しかしその一方で、寮生同士のくだらない喧嘩を和らげるための介入すらもできない自分がいました。20人規模の小さな寮で、ちょっとした問題すら解決できない自分が、世界規模の大きな問題に取り組むという大胆なビジョンを掲げることの馬鹿馬鹿しさを感じざるを得ませんでした。Zoomで友人から「誰のために社会を良くしたいのか、まだ模索中だ」と聞いたときに私は、「大学での学びをどのように活用すれば、世界を良くできるのだろう」と考えました。そもそも、自分が考える「世界」とは一体誰なのだろうかという疑問も抱きました。私は一体どの分際で、自分が社会を良くできるなどと信じることができるのでしょうか?そして何より、「日本と世界の発展に貢献」するためには、一体何が必要なのでしょうか?

このような自分の中での問いが、一年間に及ぶ卒業論文に繋がりました。第二章では、私の研究手法を、単なる知識生産の技術としてではなく、”public scholarship” (社会に直接価値をもたらす研究)のスタンスとして説明します。第三章では、柳井財団もその一部である、日本留学ブームを理解するために、戦後日本の経済と教育の歴史を解説します。第四章では、柳井財団がいかにして「社会貢献」に対して曖昧なアプローチをとっているかを明らかにします。第五章では、柳井財団が掲げる「社会貢献」と、学生が「やりたいこと」を探求する上で直面する課題を比較し、その間にある矛盾を描写します。多くの企業の慈善活動と同様に、Fast Retailingが主催する奨学金プログラムも外向きには道徳的であると見せかけながら、新自由主義資本主義の論理を再生産しているのかもしれません。柳井財団の極めて柔軟な管理体制は、社会的な「貢献」と自らの「やりたいこと」をうまく両立させる “ethical elites” (倫理的エリート) という社会階層を日本に新しく生み出しているのでしょうか。


次は、2.「協働的な研究手法」(リサーチ方法の章)です!


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