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【柳井正財団】『日本の素晴らしさを取り戻せ!?』 _6.まとめ

「社会を良くする」奨学金プログラムと
海外留学生の「やりたいこと」

この記事は、全部で80ページ以上ある人類学の卒業論文を一部抜粋したものです。それぞれの章ごとに別々のnoteを書いたので、自分の気になる部分だけつまみ食いするのもオススメです!久しぶりに書く日本語が下手くそすぎて自分でも読みづらいなぁと感じているので、英語が得意な方はこちらから原文を読むことを推奨します。

<目次>

0. 要約(以下の動画からも要約が確認できます!)
1. 「社会を良くするために、何をしたい?」
2. 協働的な研究手法
3. 戦後日本の政治経済と教育史のおさらい
4. 極めて曖昧な「社会貢献」の解釈
5. 柳井財団の期待と奨学生の実状の乖離
6. 「あなただったら、どんな「社会貢献」がしたい?」
7. 柳井コミュニティへの提案 (Appendix)
8. 引用文献


「大学卒業すると自分がどんどん現実的になってしまうのを感じるよ」デヴィンはコンサルタントとしての1年目を振り返りながらそう語りました。その中で彼は、一見強欲に見える企業も、その組織単体ではどうにもならない構造的な制約に縛られていることが多いことを共有しました。世の中を変えたいという自分の野望が減っていくのを感じたデヴィンは、自分が影響できる範囲の変化に集中するようになったと言います:「『社会貢献』という大上段に構えた考え方をすると、しがらみが大きすぎて、それを変えようと思えなくなってしまう。でも、現場にあるような小さなしがらみだったら、自分で治せるわけじゃん。だから、そういうところから変えていきたいと考えるようになった。」

私自身もデヴィンと同じように、「社会貢献」と仰々しく考えるよりも、自分が所属する柳井コミュニティや日本の留学コミュニティに何かしらの変化を起こせたら良いなという気持ちで、自分の卒業論文のトピックを選びました。柳井奨学生として、社会的にも経済的にも非常に恵まれていながらも、まだ何の価値も社会にもたらせていない私は、どうしたら「社会貢献」ができるのかを学ぼうと必死でした。しかし、柳井の奨学金制度を掘り下げれば掘り下げるほど、あまりにも曖昧なこの概念に戸惑うようになりました。それは、財団は「社会貢献」とは何か、それをどう達成するかについて、各奨学生が各自で決めることを求めていたからです。インタビューの中では、事務局も奨学生も度々「社会貢献なんて考えず、自分のやりたいことを貫けばそれで良いんじゃないか(あくまでも単なる私利私欲ではないことが前提)」と強調していました。彼らの論理では、「キャリアのどこかしらで、それなりに誰かのためになること」をすれば、「日本社会の発展に貢献する」という財団の期待に応えることになるのです。この考え方に納得できなかった私は、それから数カ月間、完全に行き詰り執筆が進まない日々が続きました。

そんな中、この研究とは全く関係ないところでも、「社会貢献」に対する私の考えが完全に打ち砕かれるような事件が複数発生しました。例えば、ハーバード大学の人類学者ジョン・コモロフ(Cho & Kim 2022)やニューヨーク大学の名誉人類学者アージャン・アパデュライ(Chakravartty 2022)が自分の学生や同僚に対し何年間もハラスメントをしていた事件です。これは、人類学が大好きで、この学問をずっと信じてきた私にとっては、衝撃的なニュースでした。彼らのスキャンダルから私が学んだのは、人は職業を通じて社会に大きな貢献をしていても、裏では他人をひどく傷つけることが同時にできてしまうということです。

このような悲しいニュースを聞いた数日後、今度は自分の大学内で別の事件が起こりました。私が大学で最も尊敬しお世話になった有色人種の女性教授が、任期なしのテニュアトラックのポジションを辞任したのです。彼女は、自ら公にした辞表の中で、大学のすぐ隣に本拠地を置く白人至上主義組織によるデジタルハラスメントや、差別の問題を大学に報告した際にまともに取り合ってもらえなかったことが、自身の健康を害していたことを語りました (Durrani 2022)。このように劣悪な職場環境に耐えてきた彼女の姿は、「まず自分自身が幸せでなければ、他人を助けることもできない」という柳井スカラー達の主張を思い起こさせるものでした。

卒論の執筆は相変わらず進みませんでしたが、その間に私は、数人の友人と共に、アメリカの高等教育におけるデジタルハラスメントについて、大学内で約400人規模の抗議行動を企画、運営しました。この活動が、何かしら大学内の制度改革につながったかといえば、そんなことはありません。でも私たちの取り組みは、マイノリティの学生や教職員を心から支援するもので、キャンパスコミュニティに多少の「社会貢献」ができたと信じています。この活動のための労力は、自分たちにとって実りあるものだったでしょうか?ーもちろん。もう一度やりたいと思えるような楽しい経験でしたか?ー絶対に、そんなことはありません。それでも、この活動は私自身のやりたいことでしたか?ー多分、そうだと思います。

この抗議活動の取り組みから、私は、自分のやりたいことの追求と他者貢献を両立させている何人かの柳井スカラーとのインタビューを思い出しました。彼らには、特に三つの共通点がありました。まず一つ目は、自分が取り組んでいる問題を直接体験した、あるいは体験者と直接交流したことがあることです。私の場合は、大好きな自分の先生が、苦悩した末に退職したことが原体験となりました。二つ目は、「利他的」な奨学生たちは、適度な悲壮感を抱いていたことです。彼らは、自分個人が貢献できることなど、社会の構造を変えるためにはあまりにも小さなピースにすぎない上に、自分が望む変化を一生見ることができないかもしれない、という事実を認識していました。私の場合も、大学当局が意味のある変化を起こす可能性は非常に小さいと知りながらも抗議活動に着手しました。それは、小さな一歩が始まらなければ、意味のある大きな変化にも繋げられないと信じていたからです。そして三つ目に「社会貢献」に積極的な学生に共通していたのは、「どんなマイナス感情も苦にならないくらい自分が好きなこと」を探求していた点です。こういった奨学生の中には、やりたいことの追求を「単に好きなことをするだけの簡単な道のり」と表現する人はいませんでした。私の体験を振り返っても、大学の抗議活動という自分の「やりたいこと」を実践するのは、疲れるし、怖いし、全く儲からないし、一見悪いことばかりでしたが、そのプロセス自体が非常に充実したものでした。

卒業論文から距離をとり学内の活動に専念することで、私は誰のために、どのように社会を良くしたいのかを考え直すきっかけになりました。少なくとも私にとっての「社会貢献」とは、エリートの学生たちが5000万円の奨学金やその他の特権を利用して、自分達が好きなように生きることでは決してありません。あくまでも私個人の意見ですが、「社会貢献」に必要なのは、可能な限り世の中の不公平を緩和するために、自分の日々の行動を意識的に選択することだと考えています。前述の辞任した教授が教えてくれたように、「私たち皆を抑圧し続ける性差別や人種差別の仕組みの是正に取り組まなければ、私が取り組むどんな仕事も、大した価値はない」(as cited in Shankar 2020a) のだと信じています。私が考える「社会貢献」は、ある日突然どこかしらで自然発生するものではありません。今、ここから、もうすでに始まっているのです。

このプロジェクトの目的は、他の人が「社会貢献」をどのように定義し、実践すべきかを批評することではありません。その代わり、私の読者がこのテーマについて批判的に考えるきっかけを作ることができれば、と考えて始めました。私の発見は、柳井財団が公言する「社会貢献」のミッションと、「利他的やりたいこと」を追い求める奨学生たちの構造的な闘いとの間に、大きな隔たりがあることを示しました。また、このような乖離があるにもかかわらず、柳井財団は、「社会貢献」に取り組んでいても、いなくても、学生個人の選択に介入するつもりは全くありません。つまり、与えられたリソースを活用するもしないも、それぞれの柳井スカラー次第ということになります。柳井が財団ホームページで述べているように、世の中の問題が無数にある以上、それを正す方法も無数にあります。何年もかけて政策を変えることが解決策なのかもしれないし、目の前の個人を支援することがその人を幸せにするのかもしれません。どんな方法を取るにせよ、私たちは誰のために、何のために「社会貢献」を実践しているのか、常に批判的に考え続けることが重要なのではないでしょうか。この研究を始める前に、私は柳井スカラーの友人に「大学卒業したら、何をしたい?」と尋ねました。あれから約1年たった今、80ページ以上にも及んだ卒業論文を、この問いで締めくくりたいと思います:「あなただったら、どんな「社会貢献」がしたいですか?」


いよいよ最終章、7.「柳井コミュニティへの提案」です!

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